言葉にすることと具体的になること(混乱中)

▼▼具体的に考える/論理的に考える/物理的に考える/客観的に見る、のあいだで、突然、試行錯誤を重ね始めてしまい、頭の中がざわざわと騒ぎ始める、っていうのを、非常に頻繁にやっている。区別がつかなくなる瞬間が多いのだ。
▼▼文字にすることによって、あるいは、数字にすることによって、思考が「具体性を持つ」ものになってくれたり、「論理性を持つ」ものになってくれたりする、っぽいところが、だいぶ掴みづらい印象だ。▼▼頭の中で行なうシミュレートではなく、現実的、実際的、にすることで──可視化させることで、具体的、客観的、物理的、あたりの性質を持つものとして顕現刺せられるっぽいところも、不明、って思ったりしている。
▼▼というふうに、混乱中の情景や背景を描いておくことで、整理できるんじゃないかなあ、と思ったのだけど、なかなかあやしいところであった。


▼▼以下は混乱中。


▼▼「具体的に考えましょう」というふうに思った時に、行動としては「文字として書き出してみよう」と判断しがちなのだけど、「文字として書き出してみる」という行為がつまり「具体的に考える」ということなのではなく、文字として書き出すことによって「具体的に考える」という状態が勝手に顕現させられ実現させられてしまうというか、実際に書かれた文字というものに脳内の区域が縛られることで「具体的に考える」ということしかできなくなるというか、勝手に状態や比率が「具体側」に寄せられてしまう、ということがあるのであって、頭の中で文字を思い浮かべて考える、のと、実際に文字を書いてゆく、のでは、如何なるところが違うのか、と問われたら、実際に書かれてしまった文字は、ほとんど変容することなくたいていは文字であり続ける、というところがそこにある違いなのであり、この性質の違いが、具体性を担保し、論理的な縛りを作り、客観的にしか見えないものにしてくれる、んではないかなー、なんてふうに思ったのであった。
▼▼無論、単語ごとにも具体度と抽象度の違いがあって、このグラデーションは「文字にするかどうか、で動かせるグラデーション」とは別で、単語選びの中でも「具体的かどうか」にまつわる色合いの違いは出せてしまうわけだけど、でもまあ、文字や数字にしている時点で、いくらか、具体側に寄せることができている、のだ──、といった理解でよい、のかなあ。?。