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世界認識は言葉ばっかりでもない(大部分そうなる感覚はあるけど)

▼▼言葉というか論理というか命題というか、XはZである、という形状で認識した世界が、なんとなく不快だったら、そういう言語的な形状で認識しなくてもよいのだよ――破棄しちゃったりしてもよいだろう、と、思うようにはなった(できるようになった、ではないけど)。言葉によって認識が偏向させられる、という事態を、若干、理解できるようになったのだろう。沢山の識者が、言葉というのは所詮言葉だ、というようなことを言っていて、そ、そうかー、と思いながら眺めてきたのだけれど、うーん、あ、もしかして、こういうことかなあ、と、最近、やっと少し、想像できるようになった気がする。
▼▼トンカチを持って歩くと「叩く」という概念に認識が支配を受ける――叩こうという眼差しによって世界を眺めることになる――叩けるか叩けないかで物事を見るようになってしまう――、というような文章の「トンカチ」の位置に「言葉」を置いてみるような感覚が、ほんのわずか、判るようになった。
▼▼浮かんできた言葉を――聞いた言葉を、そうして出来上がった世界認識を、実感性のあるものとして響かせすぎ、という印象かなあ。
▼▼おおきく言うと、言葉ばっかり信用しない、ということだろう。あるいは、けっこうちゃんと信用はするけど、コイツが唯一無二でも絶対でもないことは、知っておく、とも言える。
▼▼じぶんの頭には「言葉思い浮かべミス」があるだろうと警戒しておくし、思い浮かべミスで思い浮かんでしまったものであっても支配力や影響力ってスゴイので、舐めない(強制鎮火できるような避難訓練的心構えをしておく)、という感じでもある。