可能性ギリギリ、境界線五分五分、の時に、引き摺ってくれる

▼▼上の下だと認識しているものと、中の上だと認識しているものを、改めて丁寧に比較してみると、実践的には「中の上だ!」と思っているもののほうを「上位にあるもの」として処理していることがあったりする。境界線が微妙だったりする。とはいえ、文脈にも気分にもよるだろう。▼▼イルカとクジラはおおきさによって区別されるけれど、一番おおきいイルカと一番ちいさいクジラを比較したら境界線は微妙なようだし、クッキーとビスケット、もりそばとざるそば、パフェとサンデー、等々の、料理の境界線なんかもけっこう微妙だったりするようだ。妄想と空想、寂しいと淋しい、悲しいと哀しい、というような精神的なものも沢山あるだろう。▼▼実際の行動面での違いが微妙な差だったりすることもあるし、当該事例に対し、どの単語を使いたくなるか、という、じぶんの中での意識や認識が微妙な差だったりこともある。▼▼まだ敬語を使っておこうかな、いやもう敬語じゃなくてもよいのでは、という境界線が微妙……、みたいなこともあるかなー。

▼▼こういう「微妙な境界線」にまつわる「現場」に立ち会った時、特に精神にかかわるものについては、文脈と気分によるところがほんとうにおおきくなると思う。昨日見かけた光景、さっき聞いた話、思い出している何か、に、だいぶ引き摺られるに違いない。現状の気分はどういうものか──現状の気分を形作り、支えているものたちは、何か。


▼▼普段からじぶんが頻繁に使っている言葉に引き摺られるものである──発した言葉が言霊となってじぶんに跳ね返ってくるものだ、というようなたぐいの言説を時折聞くことがあるけれど、こういった「じぶんが発語したもの」とか「言霊の影響」にまつわるものを、最近は、前述したような「微妙な境界線に立ち会った時に、どちらを選ぶか──どちらを選びたい気分になるか、という可能性や確率を、背後で調整してくるもの」として見つめているところがあるなあ、と思ったりしたのだった。
▼▼普段から意識している言葉、その言葉によって形成されている空間の中に、身を置いて──身が置かれて、とある瞬間の「五分五分の判断」が、そちらに、寄る──。
▼▼イルカだと思ってもよかったしクジラだと思ってもよかったものに対して、クジラだ、と、無邪気かつ無頓着に、思ってしまう。思えてしまう。哀しみじゃなくてもよかったものに哀しみだと思ってしまい、親しみじゃなくてもよかったものに親しみだと思ってしまう。そして、喜びだと思わない可能性があったものに喜びを思ったりもする。


▼▼普段から言葉に気をつける、ということの意味(の一つ)を考えてみるなら、現状はこういう雰囲気で見ているかな、と改めて考えた。境界線ギリギリ。可能性五分五分。