世界は称賛に値する

日記を書きます

感情の起伏を書いたほうがいいのでは→そうだねえ(書かない)/書き始める時もあるかも(運)

▼▼昨日の「幸せの話をあんまり書ききれない」日記から、頭の中は少し続いてる。
▼▼感情の起伏のようなものをあまり書かないよなー、って思いついて、書きたくないという気持ちがある、のか? いや、あるいは、感情の起伏のことより思考の動きのことのほうを書きたいと思ってる、のかな?──優先順位の問題、なのか? でも、想像してみたら「感情の起伏の記録が残ってる」って状況だって楽しそうに思えるけど……。
▼▼うーん、確かに、優先順位で思考を選択してる雰囲気はないし、別に感情のことを書きたくないというような雰囲気もない? かと思う。なんて試行錯誤してた結果、まあ単に習慣の問題か、って結論に至った。
▼▼思考面から書き始める癖がついてる。
▼▼日記のことを話してる時は五年後十年後に読み返しているじぶんの気分を想像しながら話していることが多い。読み返すものとして日記を好んでいるというか、実際に以前の日記を読み返すのが好きだからだ。日記という言葉の裏にそういった経験を置いている。
▼▼っていうような頭の動きが、毎日の感情の起伏が残ってて数年後に読み返した時、の雰囲気を想像させてくれるし、楽しそうだ、って思わせてくれる。でもまあ、思考の流れの記録も同じくらい楽しいものとして残るだろう、とも躊躇なく言えるので、まあ結局のところ何でもよいんだよねえとは思っちゃえるし、隣の芝生の青さを羨んでるだけか、と言っちゃえるとも思う。
▼▼普段選んでいなかった選択肢がたまーに視野内に立ち上がってきてくれると、楽しそうに見える。羨ましく思ってしまえる。だから無意味だ、ってことも別にないけど、違う選択肢のことが改めて頭に浮かんだ時、再選択が行なわれるかは、結局運なのかな、とは思う。運というか文脈次第というかやっぱり運か。運命と呼ぶのもまあまあ好きだ。
▼▼前述のような思考を踏まえても、たぶん感情の起伏のことを記述の中心に置き直すようなことはしないと思う。癖に従うだろう。現状でも同じくらい楽しいことを知ってるから実際は変わらないだろう、なんてふうには言える。だけど、運が、あるいはなんかの偶然が、明日からは感情の起伏中心にしよう、と思わせてくれること、選択肢を選びなおさせてくれること、そして、思うだけじゃなくてほんとうに新たな選択肢が実践されるようなこと、を起こしてくれたりする。ここの奇跡感みたいなの、わりと好きだ。meltylove.hatenadiary.com