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過去や幸福は画一的な味つけをしてしまいがち?

▼▼過去の話をしようと言葉にすると画一的、類型的になるところがあるかなあ、って少し思った。してしまっていることが多い気がした。振り返って「あの頃」ことを解釈して話そうとしている時、同じような言葉を使ってしまっていることが多い気がした。
▼▼「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」というトルストイの言葉も類似品として連想した。
▼▼異なる事象であっても抽象化すると同じ本質があったりする、なんてふうに言える時の構造についても同時に思う。


▼▼言葉にする時に、現在進行形の体験が持っていた瑞々しさや繊細さ、多様性などなどが、損失させられることがあって──削ってしまいがちな言葉の使いかたがあるように思えていて、過去も、幸福も、わりと、失わせやすい雰囲気を持っている、というような形状で理解が可能だったりするかな、と思った。まあ仮説である。
▼▼と同時に、あるいは、過去も、幸福も、抽象化したくなる雰囲気がある、という方向性でもあるのかも。


▼▼そもそも、言葉にすることによって、画一的になりがち──類型的になりがち──単純化させられがちだし陳腐化させられがち、と感じてしまっていることについても、どうなのか、なんだかな、とは思ったりした。
▼▼言葉によって豊潤化させられることと、言葉によって貧小化や矮小化させられることは、まあどちらだってありうることだろう、と思っているところはあって、つまり、活かしかた次第だろ、当たり外れがおおきいだけでは、って思えていたりはするわけで、だから要するに、言葉で語ろうとすることによりどちらになるということではないじゃん、と思えているわけだけど、そのあたりのことと、語ろうとする対象が、少し水で洗っただけで栄養が流れてしまう食材みたいに欠損させられやすいものである、とか、色合い的になんとなく一回水で洗いたくなるよね、この種類の食材っておおむね醤油と味醂が合うため同じような味つけにしてしまいがちだ、とか、そのあたりのことを、どう噛み合わせたらいいんだろうか、って、考えてしまうところはあるのだった。