あなたの自己言及を、あなたを理解する文脈上に置くか、いきなり結論部に置いちゃうか

▼▼じぶんって○○な人なんですー、と、相手が自己言及的に発言しているのを、素直に聞き入れて──鵜呑みにして、相手のことを理解できたと結論づけてしまう──自己言及通りの相手だと見なすようになる、のと、相手が行なった自己言及的な発言をあくまで判断材料にするだけ──人を理解しようとするための文脈の上に乗せ、相手の人となりを理解するための素材の一つとする、のは、どう違う? あたりを考えていた。
▼▼相手の発言/言葉、ではなく、相手の諸々の行動──細かな動き、を観察して、相手の人格や性格、思考や思想、を理解しようとするの、と比較したりして考えたりした。発言、という行ないもまた、行動を見て相手を理解しようとする、って中における行動の一つ、して見つめるか、相手の発言の意味内容を純朴に「結論」枠に置いちゃうか?
▼▼言語だけが持つ性質? 特異性? のようなものがある? とふと思った。
▼▼相手のことを理解するために、相手を観察し、観察できる諸々の行ないを判断材料とし、理解するための文脈の上に乗せて、考えて、相手がどういう人間、人格、性格、思考や性癖、人となり、を持っているのか、について、理解する、というか、勝手に得心して腑に落としたりすること。人を総括して結論づける、という流れ。▼▼の中で、発言/発言内容だけは、言葉の特性上、本来ならば判断していった後に結実するはずである「結論部」に、無理矢理ぶっ込ませることが可能、判断や思考をサボるためのショートカットが可能? あるいは、結論がそれであったと勘違いを誘うことが可能? というような、言語のみが持つ特性、のようなものが、ありうる? と思った。
▼▼ってあたりは一息に整理できなくて混乱した。一息部分だけせめて書いた。▼▼追記したので二息くらいにはなってるかも。