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意味のカメラワーク

▼▼ころころと動き回る、ぴょんぴょん跳ね回る、ような、文章の置いていきかた、文意の流れや言葉のうねり、というようなものがあるかなー、って思った。この説明の次にこの説明を置くとは……! ここを描写したあとにここを描写するんだ……! みたいな驚異におののくことがあるのだった。一直線じゃない紆余曲折と右往左往の言葉の流れ。ここにフォーカスしたあとにフォーカスをこちらに向けるなんて!なんてふうに思う。意味から意味へのカメラワークに、はしゃぐ。
▼▼ほんとうによい流れだなー――素敵な繋がり、繋げかただなー、なんてふうに文章の流れに対して思えることがあって、それが好きなのだった。コースメニューの味の流れに驚くのに似ているかな。甘さと辛さとしょっぱさとが口腔に入ってくる順番が、すごくよい、という感じ。
▼▼てんでばらばらというか、支離滅裂、自由奔放、好き勝手、というか、乱雑に書き散らかしているようにさえ見える言葉の配置を一つ一つ追っていくうちに、あれ?なんか不思議と心地好いぞ? 胸に来るものがあるぞ……? なんてことをぼんやり感じられていることがあって、一見、思慮などまるでないようなぶれぶれな文章に見えても、実は巧みな、深慮による、組み合わせ、狙い、があって――言葉(のカメラワーク)が実は密接かつ複雑に絡み合っていて、ぱっと見では判らないような効果を発揮していて、そういうところから、快楽が出てきてることがあるんだろうなあ、ということを、改めて思ったのだった。そして、あんまり意識的にそれができてないな、と反省した。
▼▼いちおう扱えてるのは譬え話くらいか、とも思った。
▼▼(具体例挙げていくのメンドクサイよう、みたいなことを、数日前に書いてたはずだけど、具体例を嫌がる人間が、譬え話はいちおう扱える、とか言っちゃっていいんすかねえ……)
▼▼(まあよい)
▼▼譬え話を出してみせたりすることで、進路、というか目線を少し別のところに向けさせて、異なる味わいを見せることができたりする、かとは思う。印象を違えられる、という認識はあるのだった。
▼▼でも、それ以外の手法、手段は、あんまり認識できてないのだよなー。行動理論の前提に据えられてない、という感じだ。たまに見かけると――見かけるけれど、見かけるたびに、ああそれあったよね……、と悔しく思っている。いっつも忘れるよなこいつ、とじぶんを見下げているところがある。


▼▼前の文章の響きが頭の中に残っているうちに――その隙に、ちょっとしたこの話を聞かせておくことで――味わいが混ざるよう画策しておくことで、その次の話の味が、よりはっきりくっきり、美味しく感じられるようになる。というようなことについて、だ。頭が混乱してきたので、再整理。
▼▼あんまり関係なさそうな余談が出てきてたと思ったら、それが意味面であとあとスゴイ響いてくる……! というような、カメラワーク、意味における伏線、を、うまくやりくりできるようになりたいのだけど、今のところ、譬え話くらいしかやりかたを記憶できてなくて、困った、って感じだ。(あとさあ、しっちゃかめっちゃか話してるようでそれがちゃんとあとで繋がってくる、っていうのにおける「しっちゃかめっちゃか」時の「目線が別のほうに向く感じ」と、譬え話によって「目線が少し別のほうを向く」のは、違うんじゃない? この話、ちょっと変じゃない?)(と最後になって思ってきた)