世界は称賛に値する

日記を書きます

イメージの話

▼▼日記を毎日書いている。抜けをあとから埋めていることもかなり多くて、けど、後埋めに対しては、毎日書くことが目的ではなくて年間365個の文章の塊を残すことが目的なのである、と説明している。脳内で自分を説得している――納得させている。そういうイメージで「観」ることで、よし、これでよい、と思わせている。▼▼どういうイメージでそれを「観」るか――どういうイメージを当て嵌めているか、どういう比喩を用いて理解しているか、ということが、納得というか、理解というか、向き合いかた、目的、手段や結果の選びかたや納得感、を変える。一番しっくりくるのを使えばよいのだ、とは無論思うし、とはいえ結局最初に思いついたものを使っちゃう、使い続けてしまう、というところはあり、同時に、最初に――「直観」的に思ったものこそが「しっくりくるもの」ということになってしまうのでは? という疑いのことも思う。▼▼イメージを自在に変えられる、というほどのことは目指さなくてよいのかもしれないけれど(しかし、それがもし可能であるならば、ぼくはそれがしたいけれど……)(イメージを変える、ということにどういうイメージを持っているのか……)、とはいえ、あんまり固着させているのはよくない気もする。イメージは(ある程度、変えようと思えば、セルフコントロール的に)変えられるのだ、ということは知っておいたほうがよさそうだし、練習や習慣、気の持ちようなどによって「できる範囲」が変わるならば、いくらかでも、変えられる範囲を拡げておくのは、よいことだろう、と思ってしまったりもする。▼▼あんまり適合しないイメージを持っちゃった時に、変えかたを知らずに苦しんでしまう、というような「イメージ」を抱きながら、こういうのはよくない状況だろうから、事前に避けられるなら避けたほうがよいし、やりかたを知っている人がいるなら、やりかたがあるよ、可能だよ、こういうやりかたでじぶんはやっている、という言葉を沢山出しておいておくれよ、サンプルを配っておいておくれよー、なんてふうに思っている、のだ。▼▼イメージの話は、沢山あったほうがよい、というのは前からずっと思っている。そして、沢山の人の話がないと、沢山は聞けないと思う(人類おのおのから、よくて数個ずつしか、聞けないと思う)。というわけで、インターネットで人様の日記が、言葉が、聞ける、ということに関して、この「各自が抱えてるイメージのことを沢山聞ける」というところに、いいじゃん、素敵じゃん、どんどんやっていこうじゃん、とか思っているところがあったりもするのだった。イメージの話を聞かせてよー、イメージの話を聞かせてくれてありがとうー、とよく思っている。▼▼芸術と呼ばれるようなものたちって、この「イメージ」に関するものを見せてくれる、学ばせてくれる、参考にさせてくれる、っていうところがあると思っていて、そこが芸術のよいところの一つ──活かしかたの一つだ、みたいに思っているところもあるな。