一+一、って話すら人から聞いたものだけど、まあ毎日じぶんでも実践できてるので

▼▼一+一は二だって学校で先生から聞いたことがあるけど……、ってスタンスで一+一の話題に前置きを置く人がいないのは、実際に「一+一」が計算できているのに「これ人から聞いたんだけどさー」って毎度付記していたら違和感凄そう、ってあたりの雰囲気と関係してるんじゃないかな、って思った。▼▼人の意見が、人づての情報が、じぶんの意見に──じぶんの血肉に、なっていくプロセス。と、日々の実践。
▼▼世の中的、対外的には、踊らされることなくちゃんと扱えてたら「君のものだ」と認めてあげてよい、っていうのがありそうだ、とも思った。
▼▼ってふうに思考が続いたけど、実践の場における「踊らされることなく知識をじぶんのものに出来ているか」問題って、考え始めると、結局、いわゆる「意味を理解できてるか」って問題と同じように、対象となる、知識、物事、意味、に関わってくる諸々の行動が「言語ゲーム的な観点」で見て「間違い判定、を喰らわずにいられるものになっているか」でしか判断ができないんじゃないかな、って気もした。つまり、一+一を誤りなく計算し続けられている間は、理解できている──掌握できている──踊らされることなく取り扱えている、ことになる、んじゃないかなー。来歴的に「人様の意見であったもの」を見知って、見知ったあとの関連行動が「逐一妥当」であることの、蓄積、による、許しと許され、の話になっちゃうのかなー、と考えていた。