文章の歪さを整えるのと、論理ステップ抜けと、見た目や比重のバランスの悪さ

▼▼文章の歪さをわりと変質的に気にしちゃうよなー、って改めて思った。明一杯注意しつつズレないよう言葉を置いていきたがる、し、記述後も必死に整えたがる。
▼▼ばばばば、っと脳内に思い浮かぶまま言葉を忌憚なく書き切ってみせる、っていう攻めかたで言葉を進めていくと、最後は歪になりそう、って印象が強くあって、思いつける言葉を監視し情報統制しているところがかなりある。でもって、最初に思い浮かべられる言葉を信用せず不審人物を見るような目で切り捨てたりもしている、のだった。▼▼まあ実際にミスも見つかるから検査機構があることはよいことだとは言えるけど。▼▼けどまあ時間がかかる、のは難点だ。
▼▼で。
▼▼文章の歪さって嫌! という忌避的な眼差しの中で、情報量の比率の偏り、と、論理的説明の抜け、が区別できてないぞ? と、ふと気づいて、駄目だこれ、って思った。安定性や重心の不均衡に不満を覚える話、と、理解に関する密度やステップがすかすかで不満を覚える話、を、歪さ、って言葉の下で混同している、と思ったのだった。なんていうか、説明量の「比率」の話、と、説明の「抜け」の話を混同してる。
▼▼しかも、説明の文章量の比率がズレてると抜けが出る──分量の比率を適切(釣り合いがよい)にしておくことで抜けが防げる、とかいう混同までしてたりする。
▼▼微塵も連関しないだろ、とまでは、まあ思ってなくて、物事の内容や中身が不完全だから(比重が偏ってるから)見た目まで歪になっちゃってる、というようなことも、状況によっては無論あるだろう、とは思えてるのだけど──事例Aの話に三千文字かけたあと事例Bの話を五十文字で終わらせてしまっていたら事例Bのほうで論理的説明不足が発生しちゃってる確率は当然高まるだろうけど……、とは思ってるのだけど、でも、文章量の違いが説明不足に関係してないことだって当然あるだろうよ──説明に三千文字かかる話題と五十文字で説明できる話題が単純に並立するような場面だって普通にあるだろ、とも思うのだった。つまりまあ、文章量と説明不足は連関する、って認識が勘違いになることのほうが多いはずである。
▼▼というか、事例Aも事例Bも「同じ」千文字で説明できているなら「論理の抜けなく綺麗に説明できて」いる、なんて思い込めるほうが、余程おかしくない?
▼▼というような混同が駄目すぎだろ、と思って、ツッコミ処理をコーディングした。
▼▼あ、でも、これ、ちょっと違うかも。後日整理してまた書こうかな。
▼▼準備的に、軽く整理。
▼▼なんか、前述までの文章を書いてるうちに「論理面のすかすか具合というかステップの抜けを気にしちゃうのはともかく、比重的なバランスから来る見た目の悪さまでは気にしなくてもよいんじゃない?」って雰囲気が出てきてた、んだけど、心情面を改めて観察してみたら、見た目のバランスのよさが好きだ!っていうような気持ちのほうが、むしろおおきい気がしてきていて、文章量の比重とかの話のほうを実際は問題視したがってるのかもなー、と思い直したのだった。
▼▼文章の見た目ばっかり気にしてどうするのさ、っていうのと、論理的すかすかがある文章は駄目かも、って話を、変に組み合わせちゃった気がする。▼▼厳密に考え直したらこうしたほうがよい、って思えるためのゴールの位置設定をミスった印象だ。