読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

理解ってぜんぶ比喩的? 近すぎると比喩ではなさそう

思考記

▼▼比喩で理解する、っていうのって――似ている、という手触り(閃き)を手がかりにして、把握しようとする、っていうのって、理解という行為ぜんぶそれじゃないの? という気も少しして、考えていた。▼▼眼前のものについて今まさに「理解しよう」と志向していることにおいて、過去の記憶、過去の経験、が、関わってこないわけがないのだから、つまり、ぜんぶ「比喩」と言いうるのでは?――ぜんぶの理解について過去の体験が比喩的に関わってきていると言いうるのでは? という思いつきであった。


▼▼昨日解いた数学の問題を物差しにして、今日の数学の問題を、理解する。昨日の合コンでの会話を反省材料にして――昨日の合コンと似たものとして、今日の合コンのことを考える。昨日食べた蜜柑を今日の林檎を理解する。前に触れたパソコンを使って今日のゲーム機のことを考える。
▼▼似た物体、似た行動、が二回あって、二回目を、一回目の比喩、として、考える、ということにおいて、同じ、と言えるような形状を使って「比喩だ」と解するのは、いちおう妥当、なのかなー。▼▼「同じ(同じではない/似てる)とは何か」――「同一、というものを定義してから、類似や喩えを判定せよ」って話になっちゃうのかな……。


▼▼近すぎるものや似すぎているものは比喩とは言えないだろ、っていうような指摘で終わってしまう話、な気もしてきた……。
▼▼喩え、というのは「ほかのもので喩える」と辞典的には説明されている。「ほかのもの」――「ほか」という言葉が使われている以上、近すぎるものや似すぎているものでは駄目である、「ほか」とは言えない、という形状で理解しちゃってよいのでは?


▼▼同じであるとも、まったく違うとも、言いがたいような、「程よい距離感」で、類似してる近似してる、同じようなところがある、と言える時に「こそ」、「比喩」という言葉が使えるのではないか。ほどほどの距離感がある時にこそ「比喩」だと人に打ち出せるのではないか。距離感が比喩のキモであり、距離感を踏まえない「似てる」は「比喩」とは異なるのではないか。
▼▼っていうふうに「比喩」というものを考えてみるなら、物事を理解する、という行動の中に「似たもの/似た記憶/近い記憶、を手がかりに、掌握しようとする」という要素が常に含まれているのだとしても、だからってそれをぜんぶ「比喩」と称するのは妥当ではない、ってことが、言えたりするんだろう。▼▼似た事物を比較に使うだけでは――単なる「似ている」だけでは、不適切で、似たものが程よい距離にある必要があるのだ。そこまで考えられていないと使えない。


▼▼以上、「理解はぜんぶ比喩である」の否定的証明、終わり。▼▼なんて言いたくなる気分にはなった。