ひいき目コントロール

▼▼ひいき目を如何にコントロールできるかが人生と世界観を分かつ一つの境目になっているんじゃないか、というようなことを思った。ひいき目に振り回されそう――ひいき目がここで出てくるかあ、なんてふうに思うことが多いせいだろう。節制を意識させられる瞬間はけっこうある。
▼▼という、ひいき目に引き摺られる問題を考えるにあたって、ひいき目の引っ張る強さが各個人によって違うようだ、ってことは意識しておいたほうがよさそう、というのは時折思うのだった。根本的にあまり強く出てこないため制御に困ってない、ような人もいる気がする。あるいは耐性が違う、という見かたもありそうである。ひいき目が影響を与えうる精神範囲、行動範囲も、人によって違うように見える。
▼▼こういうひいき目に関する生得的な耐性、によって、世界観自体が変わりゆく、という現象のことも考えておくとよさそうだし、構築された世界観のありようによってひいき目の操りやすさや範囲も変わる、という逆の流れも踏まえてよさそうだ。
▼▼などなど考える。盲信や盲従、視野狭窄による称賛、過信や媚び、等々は、出てきがちと言えば出てきがちなほうだと思うのだけど、でも、こういった性質に対して「しないほうがよいので、なんとかしないと……!」と思うことは、最近、何となくあまりしなくなってきていて(この手の問題は「駄目だと思う思わない」ではない、なんてふうに感じ始めているようだ)、考えなくなった余波と余裕で何を考えているかと言うと、とにかく細かくいろいろ考えておくとよさそう――いろいろ知っておくのがよさそう――なんかそういう知識の蓄積が(蓄積が自動的に振り分けてくれる認識の重み付けが)がちょっとずつ、思いのほかよいところに、頭や躰を持って行ってくれる、そんなような幸せが思考という行為の中に時々見つけられるっぽいぞ、というようなことなのだった。この世についていろいろ考えてることがよいことだと思える雰囲気の力学だ。