疑問文を持っているから、本質を探れる?

▼▼なぜ?を5回問うて問題の本質を捉えろ、っていうトヨタの説話があって、なぜ?を突き詰めることによって人は物事の本質に辿り付けるものなのかな? 本質はいつだってなぜの向こうにあるものなの? なんて連想したりもして、いやこれは今話題にしてるのが問題というか障害というか、つまり「因果の難点」に関する話をしているからこそ「なぜ」によって遡っていけるのであって、つまり「問題」に関する話なら「なぜ」って言葉によって本質にアクセスしようとしてみることができるわけだけど、だからって世の中にあるすべての「本質」探求行動が「なぜ」で行えるわけではないだろう……、ってふうに思考が進んで、いやむしろ、5W1H的な疑問詞を繰り返してたらどれであっても「本質探り」みたいなことができるじゃん、って思った。
▼▼因果関係を遡って見えてくるものだけが「本質」ではない、けど、因果関係を遡って見えてくるものを見たがってる状況なら、それを「本質」と呼びうるかと思う。▼▼というところまで考えて、本質探りと疑問文は切り離せなさそうだ、って思った。▼▼というか、疑問文をぶつけることで、化けの皮が、虎の威が、薄皮が、一枚はがれる。って繰り返しの向こうにあるものを「本質」と呼ぶ、ってのがそもそも「本質」の定義?
▼▼疑問文って凄いなー、言語の本質は疑問文かも(雑)とか思ったりもしてみた。まあ人間は言語があるから仮定を見ることができる、って話あるし、ここの関連かな。