世界は称賛に値する

日記を書きます

以前とは、不満系が違う

▼▼数年前の日記を読んでいて、諦めの量が、最近より少し多く見えるな、と思った。隠せていないように見えた。隠せないくらい飽和し溢れていたのだろう。あるいは、隠すのとかメンドイじゃん!と思わせてしまう型の悪性種だったのだろう。▼▼最近は、わりと隠せてる。隠せてる、というか、露出させないでいられる雰囲気が出てる、のだった。


▼▼満足と不満のバランスが少し変わってる、って気がした。満足と不満のバランスの差異が、諦めの量が違って見える、ことに繋がってるのではは、って思った。▼▼満足と不満のバランス、っていうよりは、期待感やチャレンジ精神、と、諦めや判ったような浅はか顔、のバランス──、なんて言ったほうが的確かも、とも思った。▼▼バランスっていうよりは、配置……? とも思った。


▼▼満足と不満のバランス、って言いかたに違和を覚えたのは、満足が増やせて幸せまで増えたー、というような雰囲気ではなさそうに思えた、からだ。▼▼あえて「満足」って言葉に接続するなら、満足の「質」を変更できた? か、満足が出てくる「ルート」を変更できた? って形状になるのかなあ。▼▼このあたりの変更によって、期待感やチャレンジ精神が素直に抱けるようになってきた、んじゃないかな、って気はした。


▼▼おおきな変動のない静かな日々が続いてるように思えていても、細かく見るとこういうところのバランス/配置が変わってたりするんだな、面白いな、って思った。


▼▼このあたりを記録する習慣って出来てない。記録意識も薄かった。ので、もっと意識的に記録していてもよいのでは? って思ったし、記録習慣があまりなくても匂いが結構残ってくれてたりするのもスゴイな! っていうのも思った。


▼▼つまり、以前の日記の中に漏れ出るようにして残っていた「諦念や不満の、匂い、気配、翳り」から推察できた「世界に対する眼差し」が、現状とは違うように思えた、のであった。▼▼現状でも不満はある──量的には同じくらいあると思う、けど、でも、なんか、匂い、気配、翳りかた、つまり「質」が違うように思えた、とも言える。