ツイッター言葉のねじれ2

▼▼Twitterの言葉の指向に関する「ねじれ」が、時々気になってしまうのは、ぼくに話しかけてくれているのではないか?とぼんやり思ってしまっている言葉が実はそうでなく、ぼくの言葉もまたなんとなく話しかけているつもりの相手には実は届いていないのだ、というところの勘違いに、気づくことがあって──たまにしか気づけていないという実際があって、あーあ、と、残念に思うことがあるからだ。
▼▼無論、残念かどうかも考えかた次第ではあるのだろう。誰に向かって放たれたものであろうと──如何なる場所に置かれたものであろうと、一回飛び出した言葉は、飛び出したあとはもう、独立したものなのであって、ぼくに向けられた言葉でなくともぼくの耳に聞こえたならば、ただ聞けばよいのだし、ぼくの発した言葉が狙った相手に届かなものであったとしても、ただ届いたところに届けばよいのである、という判断は、ありうる。好きな解釈だとも思う。とはいえ、相手に届くか、誰に届くか、誰に届けたいか、ぼくに届いているか、等々を、まるで気にせずにいる言葉の捉えかたというのもまた、味気ない気はするし、難点だって孕むだろう。コミュニケーション基準で考えるなら軽視してよい問題でもないとは思える。
▼▼堂々と勇敢と投げやりを混じり合わせたような言葉独立派と、届くかどうかを繊細に見つめ工夫する言葉接続派。迅速に行き来できればなよいな、と思ったりはする。
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