世界は称賛に値する

日記を書きます

第二次モノゴコロ

▼▼物事を単純に見過ぎていた──見逃してた要素が沢山あった──問いの立てかたが逐一甘かった、なんてあたりのことに気づける目線を、やっと獲得できた時期というか、眼差しを細かくしていくことのできた時期が、あった、って気がしてて、乱雑に言ってしまうなら、二十代前半と二十代後半では、問題意識の細やかさが違うものになってた──違うものにできるようになってた、って認識が少しある。
▼▼第二次の物心がついた時期、って認識だ。
▼▼程度問題、確率論、あたりの概念の重要性を知った──思考時に念頭なり頭の隅なりに置けるようになった──点検項目に混ぜられるようになった、ってだけのことかも、とは思う。逆に言うなら、極論ばっかり言ってた、ってことかな……。▼▼人間の限界、を知った、っていうのもあるなあ。限界を舐めてた、ってよりは、負荷がかかり続けることの無理具合や破綻具合を舐めてたフシがかなりある。
▼▼かつては思考の枠組みや精度が甘かった、って雰囲気はずっと抱いてて、けど結局何が違ったんだろう、って頻繁に疑問を持ってもいるので、即座に思いつけたのを改めて挙げてみた。ぜんぶではないかなあ、とも思う。新たに得たもの、違い、は、まだほかにもあったと思う。▼▼多岐に渡って色々知ったのだ、って単純に言っちゃうなら、まあまあ言っちゃえる。▼▼心理学や哲学や統計学あたりの見識についてはこのあたりでちゃんと知り始めた気がするし。経営学と経済学があとに続いて、社会学がわりと最近になる。文学は結局いまだ怪しくて、政治学も危うい。▼▼読書環境変わっただけ感ない?▼▼いずれにせよ、この時期に「物事を細かく見るようになって改めて知って驚くことができたこと」達が、まだきちんと腑に落とせてなくて──しっくりはきてなくて、だからあえて日々日記に書いてみせることで、馴染ませようとしてる/飼い慣らそうとしてる/染みこませようとしてる、あたりの日記動機はあるかも、とふと思った。