権利概念が染みつかない人間精神

▼▼所有権や著作権あたりの概念が頭の中にまったくもって存在しない人間、というのは想定可能な気がした。所有権や著作権というものにまったくもって触れる機会がないまま育ってきたケース、というのは想定できたし、所有権や著作権というものがそもそも存在しない文化、および、そういった文化圏で生きていたら気づきようがないだろう、というのも想定できた。無論、生まれつきそういった方向に目が向かない、生来の、所与の、機能として「持っていない」し「思えない」人間も想像できる。
▼▼ということに加えて、人様を我がことのように思えない人間が想定できる、ということも考えておかないと、とも思った。所有権や著作権というような感覚が、じぶんのことについては「思える」ケースだ。
▼▼いや、権利(××権)という言葉、形式、にしてしまうと、個人的なもの、というものとは反発しちゃうところがあるのかな……。そもそも権利というのは各人に分け与えるために生まれた概念なので、ぼくだけの権利、という言葉は語義矛盾的だ、というような異論は思いつく。
▼▼だったらまあ、権利ではなく、欲とかでもよい。あるいは、価値を認められる。理解できる、などでもよい。じぶんの創ったものはじぶんのものだ、じぶんのものはじぶんのものだ、という頭の使いかたを「じぶんにだけは向けることのできる」ケース。
▼▼権利っていう概念のありかたにしても、人様のことを我がことのように考えることにしても、人類存続の鍵というほどのものではないだろ、と思っているところがある。生きていくにあたって必須ではない、という感覚だ。これらを混ぜておかなくても社会や人類は構成できるんじゃないか、という楽観シミュレーションだ。
▼▼いや現代社会はどう見てもそれらを基盤にしてるじゃん、というツッコミは当然思いつくけれど、あくまで現代の人類、あるいは現状の人類は、そういう形に世の中を構成してきちゃってる(最適化してきちゃってるところがある)わけだけど、現代のものとは異なる社会だってありうるし、その中の一つの形として、権利や他我問題がもう少し違う形で出てきてるものだってあるんじゃないか、って思える。
▼▼というか実際、所有や著作権にまつわる感覚って、おのおのの文化で異なるところがあるはずだ。物欲や所有欲、みたいなものの個人差すらけっこうおおきくあるし。このあたりは世界観的な違いとして見てもかなり異なっていたりする。そういった違いの積み重ねがどういう形で「明文的な権利」として現出するか、って、運や流れによるところもおおきいと思うし、その一形態が現代文明なんでしょう、という意識がある。
(間)
▼▼各種「権利」概念は、もともと人々が「みんなわりとこう思うよねえ」という雰囲気があるからこそ、それを踏まえて、あるいは、それを強固に確定させておくために作られた、というところはあるんだろう。
▼▼けど、いったん、形式化され、固定化されてしまったら、その後は、ちょっとずつズレていったり、合わせられない人が出てきたり、してしまうんだろう、というのも思った。
(間)
▼▼著作権、に関して考えてると、創作活動にまったく触れずに生きてきたら、意識するのは難しいんじゃないか、という気はやはりする。
▼▼創作活動にまったく触れない、なんて厳しくない? そんな人いる? 誰だって何かしら工夫なりなんなりするわけで、それを「じぶんのものだ」って誰だって思うんじゃないの? とは思いつつ。
▼▼じぶんの意志で作ったものはじぶんのものである、というのは、じぶんで作ってたらやっぱり出てきちゃうのかなー。「人類の生得的な意識の動き」なのか?
▼▼いやでも思考実験なら「じぶんで創ってたら」が一回もなかった人間、は、いちおうやはり想定可能なのでは?
▼▼そして、自我、っていうものについては、ほんとうに誰もが今じぶんが思ってるみたいな認識で自我を感じているのか? これ以外ないのか? というのも思うしなー。
▼▼というのを気にしてしまうのは、哲学に触れている時、よく、自我がない、自我という意識がない、自我とは何か、どれが自我か、自我はあったりなかったりするのか、というようなシミュレーションをさせられているからだろう(するのが好きだからだろう)。
▼自我なんてない、個人なんてない、誰が言ったところで、誰が創ったところで、すべて同じだ、等価だ、というタイプの意識は、あってもよい気がする。あるいは、わりと好きな気がする。
▼▼最初は何もなく生まれ、どうせ人は死に、何もなくなり、世界はただある、というような、つまりは無我の境地のような心情や世界観、風情がありうるのなら、その延長線上にはこういう感覚があるんじゃないか、とは思える。