知的耐久力に欠けることと、飽いてやめるのと、目先の快楽を我慢できないのと

▼▼知的耐久力に欠ける、という話題(一昨日の日記で書いた)について、具体例として脳裡に思い浮かべていた状況が、問題集のある問いが解けなくて悩み始めたような時、解答集が手の届くところにあったら、比較的すぐ手を伸ばしてしまうことが多かった──身近にすっきりできる物があったら我慢できなくてあっさり手を出してしまうことがわりとあった、っていうようなものであることに、不意に気づいて、いや、これって知的耐久力の話か? って思い直した。思い直してみた。
▼▼いやもうやだよ考えるの面倒臭いよー、なんて思ってやめてしまうのと、すぐそこに解答や回答例があるなら無駄に悩んでないで見ちゃえばよいじゃん、なんて思ってやめてしまうのは、違うのでは、って思ったのだった。▼▼不快でやめようとする気持ちと、快楽に抗えなくて別のところに手を伸ばしてしまう気持ち、は、少し違う気がしたのだ。常に同一視できるわけじゃないよなー、って思った。違う場面がありそう。
▼思考するのメンドイよーもうやだよーやめようよー、は「挫折」って言えると思う。だけど、答え気になるよーすっきりしたいよー我慢できないよー、は「挫折」って言えるのか? とか言えるかなあ……。▼▼答えが気になって我慢できないぞ! って気持ちの背後には、嫌だ! って気持ちが、あまり感じられないのだよなー。嫌だ! って雰囲気の強さの違い、あるいは質の違いを感じて、同一視できない、って思ってるみたいだ。確かに、考えるのが嫌だ、って気持ちが薄いのは間違いないのだよなー。中断してる、って事実は同じだけど……。
▼▼しかしどうだろうなー。
▼▼結局、耐えられてないのは同じだろ、って言うなら、同じだ、とも思える……。
▼▼ツラさに耐えられないのと気持ちよさに耐えられないのは、ほんとうに異なるの?
▼▼違う「耐久性能」の話になるの?
▼▼ツラいことに最初から耐えられない、のと、楽しそうなことが未来に待ってるせいで現状に耐えられない、っていうのは、異なるのかなあ?
▼▼楽しそうなことを待てない、っていうのも、楽しそうな未来を経由することで現状が相対化されて「ツラく思わされる」ってだけのことであり、ツラさに耐える、って形状で見るなら、最終的には、同じになっちゃうのでは? ▼▼いや最終的なところが同じ、なら──つまり途中が違う、なら、線引きすることが許されたりするのか? ▼▼決めるのは君だ、って気もするけどね……。▼▼まあ、あるいは、不快耐久性と快楽耐久性を区別したい欲望、のようなものが、あるのかもねえ。meltylove.hatenadiary.com