判ってもらおうとするための(相手が「いる」と見えている)言葉と、じぶんが判るための(じぶん頭の中で整理するための)言葉

▼▼物理現象や社会現象を相手取っている時の問題解決と、人間現象を相手取っている時の問題解決は、多少、勝手が違う、というか、目線が違う、というか、やりかたを変えているなあ、と思えるところがあった。人間相手は特別だし特殊だ。対人に限らず、対生物が特別特殊か、とも思った。思考や意志や精神や感情のありそうなもの、を相手取ろうとした時なら、特別視は出る。同じ地平では考えていないことが多い。


▼▼「──とは何か?」と問うてみせることで、定義や境界をはっきりさせようとする時があるのだけど、人間を相手取っている時に持ちがちな「相手とのコミュニケートを、可能な限り、滑らか、健やか、にするために、問うぜ」っていう意志と、物理現象や社会現象を相手にしている時に持ちがちな「世の中のことを改めて詳しく精緻に知ることで、世の中の難点や欠点をうまく乗りこなしてみせるし、利点を活かしてみせる、ために、問うぜ」っていう意志は、違う印象があるぞ、と思ったので、冒頭のようなことを、いくらか考えていたのだった。整理していた。
▼▼対話と独白、対人と対自己ないし対世界、開放的と閉鎖的、客観的と主観的、二人と一人、相手に判ってもらうための意志とじぶんが判りたいための意志、あなたのための言葉とぼくのための言葉、といった、背景の違い、空気や雰囲気の違い、による、「──とは何か?」という「言葉の整理」行動の、志向の違い、志向の変質、というようなことを考えていた。▼▼うーん、相手の心の想像装置を使うか否か?かな?(でもって、余談だけれど、じぶんの心に対しても「想像装置」があるんだろうか……)