世界は称賛に値する

日記を書きます

2015/01/31は、描写背景の時間性に感嘆する日

▼▼綺麗な文章だな、と、数秒の出来事と数秒の心の動きを描いたものに思うこともあれば、今日一日ぜんぶの総括のような思い出と情感の描写に思うこともある。おのおのの文章が切り取っている時間の違いにたまに驚くのだ。言葉で切り取ることのできている時間のおおきさの違いに驚くことがわりとあるのだよなー。同じような文字数や文章量を尽くしながら、数秒間に起きた煌めきも掴めれば、百時間が見せた煌めきだって掴める。時間を記憶として──記憶の感想として、言葉にするなら、実際の経過時間はほとんど関係がなくなってしまって、捨象される要素が増えるだけだ、なんて言ってしまえる話ではあるのだろう。とにかくいずれにせよ、言葉を発する瞬間に、頭の中にふわふわさせている世界像、の、時間性の違い、あたりが、妙に好きなのだった。時間観と言えるかな。小刻みかつ繊細なのだったり、緩やかで豊穣だったり。人は、眼差しのフレームレートを、状況や雰囲気や気分で変えられるんだろう、と思ったりする。動画のフレームレート比喩。もしくはシャッタースピードでも比喩できるかな、って思った。おおむねオート設定で、自動的に調整されて状況に適合させてるんだろうけど、意識し注意してみせることで、多少は、マニュアル設定的なことも可能になってたりするんじゃないかなー? なんて楽観もしている。楽観的に調整したがっている。ゆえにまあ、マニュアルでの設定(まあ実際はプログラムオートくらいかもだけど)によって、眼差しの時間幅を変え、時には瞬間を言葉にし、時には数週間を言葉にしてる人の姿に、脳に、意識に、軽い憧れを抱いてしまうのだった。好きだなって思っちゃう。あと、動体視力に優れている人は、世界を描写しようとした時の時間の切り取りかたも細かくなる──短時間の世界で物事を見るのが基本姿勢になりがちである、なんていう身体性との絡みもあったりするのかな? あったらおもしろそう、って連想もした。▼▼起床は午前9時頃。勤務は午後。昨日の雪の名残は薄らしていた。陽射しが非常に強くて、窓を開けて光に目を細めて、雪一過だ、的なことを思い浮かべたけど、雪一過、って判断は、ここでは理屈合わなくない? と思った。