世界は称賛に値する

日記を書きます

じぶんの趣味や感性と世界の方向性が一致してる時

▼▼じぶんがやっていて「楽しい……!」なんて素直に思い始めてしまう嗜好や無意識のうちの行為、脊髄反射的な好き嫌い等が、世界に対して/人類に対して/じぶんの生存に対して/じぶんの正義に対して、よい、と自然に言えちゃうようなものである時に──と思えた時に──じぶんの感性が「運良く程良く都合よく」世界のありかたのようなものとほぼ同じ方向を見てくれる「仕様」になってくれてた時に、いやこれじぶん的には別に問題ないけどよいんすかね? と不安に思ってしまうことがあるな、って思った。▼▼同じ向きに設定されてなかったらどうなってたんだろ、って心配してしまう雰囲気が出る。
▼▼まあ合ってなかったら合ってなかったでどうにかはしたんだろう、とは思う。致命的な不適合、なんて滅多になかろう、とも思うし、何より、一人の人間の人生や生活の局面局面でさえ、合ってたり合ってなかったり、切り替わってるはずだろ、って思う。
▼▼けどまあ、合ってない比率が妙に高めで頻繁に困ってる人も、適合率が非常に高くて連日楽ちんな人も想定はできる、し、合ってなさが絶望的なものになりうる人だって想定は可能だ。可能だと思う。▼▼なんていう「合ってる/合ってない」の違いだけで「この世界における過ごしやすさ」がおおきく変わってきちゃいそう、なことに対して、ああもう、うーん、なんかなあ、とは思っちゃうのだった。▼▼ここの適合不適合がおおきく影響してこない構造に切り替える技術が欲しいなあって思ってしまう。
▼▼世界に合っている人間と合ってない人間の間の「断絶」がひどく深そう、ってところにもだいぶ不安があるしなー。▼▼前述した「断絶」をうまく認識の前提に置けていないことにも不満が残る。▼▼断絶がある、って普段から自然に思えてないかと思う。▼▼普段から自明視しててよいのかも迷いがあるけど。▼▼前提に置けてないことによって、じぶんが合ってる側に属してる場面で合ってない側に配慮できるか、が、危うくなるし、逆に、じぶんが合ってない側に属している場面で合ってる側の人に対して「わかれよー」とかあっさり思っちゃいそうな怖さ、もあるしなあ……。
▼▼最近、時々、脳内でシミュレートしてた「じぶんの中の道徳と世の中の道徳がほぼほぼ一致してる人の世界観ってどうなるのかな……?」や「雰囲気やノリや気分、習慣や手癖で物語作ったら適度な解釈の隙間を作れる作家とかありえそう……」あたりの試行錯誤が、このあたりに類似したモデルを扱った思考だったか、と思い出した。前振りあった。