ここの解釈はこうですよ、って明示している物語

▼▼ある解釈を一つ思いつけたことで登場人物の行動に道理が通って納得できる物語、が時々はあるので──実際に「うまく解釈できたことで楽しく読めた」ような経験が何度かはあるので、逆に、筋が通る解釈にまで脳が辿り着けてなくて、釈然とせぬまま──不服のまま、物語を摂取しちゃったこと、も、まああるんだろうな、って思った。のちのち人様の説明を聞いて納得感が増したこととかもあるしなあ……。
▼▼物語読解における「状況に対する解釈」を、登場人物が思考してたり台詞を吐いたりしてて「わかりやすく」なっていて「固定的に寄せちゃってる」ことについて、批判的な意見は見かけたことがあるし、実際に解釈がツマラナイ一つに固着しちゃってるような雰囲気になっていて「説明的なのってやっぱり駄目かもね」って思えてしまったこともあるけど、説明的に演出してくれたからこそおもしろく思えた、っていうような状況もやはりあるし、時々出会うので、分量や混ぜかたの問題になるのかな、と改めて考えていた。
▼▼如何に解釈の余地を残すか。解釈の余地の丁度よさと適度に解釈させてもらえることの気持ちよさ。手頃な解釈感をご提供しますよー、なんていう物語提供のサービス面を認識してみたりした。▼▼物語りの才能として、ごくごく天然の語り口で語ったらごく自然に「快楽に繋がる解釈の隙間を描けてしまう」っていうの、まあありえそうだ。けど、解釈の隙間の好みは人による、のもあるから、人類に通用しそうな天才をここに想定するのは難しいかな……。▼▼天然自然の「癖」によって微妙なバランス調整を達成できちゃう人、を想定してみて、けれど自然にはできない人が意識して工夫して「やる」にはどうればよいのだろう、ってふうに思考プロセス進めるのが好きっぽいなあ。よくやってる。