世界は称賛に値する

日記を書きます

昨日の日記で二元論や三竦みに対する気持ちが一歩進んだ、とかの日記の効用的な

▼▼物事や自己や認識に対する理解がやっと一歩進んだぜー、なんて思えるような文章が時々は書ける。昨日の日記で「二元論や三竦みで物を捉えている」と認識した時の脳内の運用が変わったかと思う。同概念を活かした語られに対する目線や対処法が変化したと思う。より理解できているほうがよりうまく動ける、という前提で世界を行けるなら、多少は「うまく動ける」側に寄れただろうと思う。期待できちゃう。
▼▼理解が進み世界が変わる、の気持ちよさは格別だなあ、って改めて思った。
▼▼物事の仕組みを理解しようと頑張って、頭の中の出来事を整理しようと頑張って、認識と脳裡を並べて晒して、客観的メタ的に、日々、弄くりまわしてしまう、っていう習慣が出来上がってしまっている。のは、このあたりの気持ちよさを求めてのものだろう。
▼▼日記はよいねえ、って改めて言いたがってる風味かなあ。
▼▼意識的に整理に挑戦している対象じゃなくても──明確な曖昧概念じゃなくても、日記の中の語りや騙りが、運良く、偶然、脳内にかかっていた不思議の霧の輪郭が浮かび上がらせてきてくれて──認識できていなかった思考の靄に目を向けさせてくれて、しかも言葉が勝手に霧を晴らしてくれる、までは行かないにしても、手の届くところまで対象の降ろしてくれる、ことがあったりもする。
▼▼っていうのも進化気味に認識できちゃって気持ちよかったりするし……。日記書くの楽しいねえ、とかほわほわ思っちゃうのは止められる気しないなあ、って思った。▼▼別に歯止めをかけたいという話ではないのだけど……。称賛一辺倒に見えちゃうと微調整を加えたくなる、ってのはあるなー。おそらく、重心ズレすぎると繊細さが消えそう、的な経験的不満や嫌悪があるんだと思う。怖がっちゃうんだと思う。なんていう調整を加えながら丁寧に称賛できるならぜんぜん文句はないし。