三竦みと二元論

▼▼三竦み型が好きだ。認識の整理において三つの区分を思いつけてしまうと、三竦みだぜワーイ、なんて思い始めてしまって──綺麗に整理できたでことに対する気持ちよさに酔い始めてってしまって、あとは短絡的に「三竦み」だと決めつけながら語ってしまう癖があるかと思うのだけど、世界全体が「三竦み」なんていう綺麗でわかりやすい枠組みで整理できることなんて稀に決まってるんだから、理解が容易い整理に人は惹かれちゃうぜ流されちゃうぜ的な認識ミスがゼッタイ混じっちゃってそうだよなー、っていう不安にも思いを馳せ始めてることができて──脳裡では踏まえておいていられて、結局、多少は盲信せずにいられる。検証しながら話せたりする。
▼▼物事をぜんぶ二元論的に見ちゃう、っていうのも、同じような問題を抱えてると思うのだけど、二元論的眼差しは、習慣的かつ基礎にありすぎて──慣れすぎてて、疑いの目を挟みづらいのだよなー。っていうのが怖いぜ、って改めて思った。▼▼毎回物事を「三竦み型」で認識してたら「なわけないだろ」って自己ツッコミできるけど、毎回「二元論型」で物事を認識してても、ツッコミを思い浮かべられるすらが怪しい。
▼▼世界はぜんぶ二元論で見てよい/世界は二元論で語るべきものだ/人間の目線は二元論に頼るとよい、なんてふうな、実はむしろ賛美してしまって活用しておいたほうがよいのではないか?的な関連意見も、思ったりもするのだけど──別に世界側が二元論により出来ているものでなかったとしても人間側から二元論を導入するのはアリだろう、って立場はよさそう?なんて思ったりするのだけど、この「二元論」を「三竦み」に置き換えたらどうなの? 置き換えられるとしたら結局何でもアリでは? という疑問も浮かぶ。
▼▼あ、いや、うーん……。▼▼要素を「三つに分ける」のと「境界線を引いて二つに区切る」のは、やっぱり、おおきな違いがある気もするなあ……。▼▼境界線を見極めて線引きするのと、三っていう数字のもとに整理する、っていうのは違うだろう、と言えるかな。二元論は結果的に2になってるけど三竦みは3に依存しすぎというか……。