世界は称賛に値する

日記を書きます

下手な作品がいつの間にか楽しめなくなったんだけど、って世界に文句つける態度

▼▼習熟によって稚拙が見極められるようになる、っていう変質に対しては、相変わらず迷いがある。現在では稚拙だと思ってしまうような文章を子どもの頃はぜんぜん気にせず読んで楽しんでいられた、っていうのが、継続してたら駄目なのか?──問題が起こるのか?──実際のところ実現は不可能なのか? あたりの迷いかなー。
▼▼いやまあ問題ありそうだ、って雰囲気はある。▼▼けど消費者側目線で言うなら、楽しめるものが多いほうがよいはずだ、っていう単純な論旨も少しは浮かぶ。
▼▼まあ誰だって永遠に消費者側ではいられないからね、っていうのはありそう。いや消費者として漫然と暮らすからよいよ、って言う台詞はまあ浮かぶし、消費者目線認識を一貫させることが不可能ってことでもないと思うので、素直に聞き取りづらい言葉ではあるけど、世界のぜんぶをぜんぶ、消費者側で暮らす、って姿勢で対応していくのは、厳しそうにも思える。消費者側ってスタンスでは対応しきれない領域がありえてしまうと思う。
▼▼消費者側に立って稚拙なものも稚拙じゃないものもぜんぶ楽しめちゃうぜ、って話に対し、物事の上手下手を見極めることができない、か、もしくは、見極められないほどではないにせよ、見極めても別に上手下手に対して強い思いを抱かない、という雰囲気で認識している。別に上手でも下手でも特に気にしないよー、って気分が脳内で蔓延してる想定であり、つまり、事態を動かそうという意欲が強くない想定である。上手さ巧さ旨さに対しての欲が薄い心理の想定だ。うまくしよう、って気持ちが薄くて、実行欲も薄い。
▼▼物事の習熟を経て、下手が見分けられるようになり、下手を避けて、物事を上手く行なおうと欲する、っていう機能の稼働率が低いのは、確かに、世渡りとして問題がありそうかな、って思えたのだった。下手受容はこの状況を引き起こしそうに思える。
▼▼別視点で、人間の飽き性能の問題も浮かんだ。人間の飽きる性能を舐めるなよ的な話かな。誰だって学んで慣れて飽きちゃうのだから「精緻な見極めによる楽しさ増幅」に向かっていくしかないのだよ、っていう構造や諦観や覚悟の話である。
▼▼物事の上手下手を見極めたり実現したりできるようになるため、でもって、飽きずに世界を楽しめていくために、ありなのかもねえ、って気持ちに向かわせることはできた。