世界は称賛に値する

日記を書きます

説明書を書くときの文、を、小説に移植する/しない

▼▼説明書や手順書を書く時は文章を置くかどうかあんまり迷わずに済んでいる。記しておくべき文章と記しておかなくてよい文章の見極めが楽だからだろう。書くことによる効果と書かないことによる効果が明瞭なおかげだ。書くことによる充足および書かないことによる不足が見通せるのだ、と言ってもよい。時系列順や箇条書き、っていう技法が利用しやすいのもおおきいな。目的が明確なので設置や技法の選択に迷わずに済む。
▼▼と比べて小説の文章だとだいぶ迷う。小説の目的の不明瞭さ、と、ある一つの文章が小説全体に与える効果の不明瞭さ、が、状況を逆転させてしまうんだろう。説明書と小説じゃ狙いの定めづらさがぜんぜん違う。逆だ。
▼▼置くか置かないか迷う。見通せないで感覚と感情と文脈や勢い頼りになる。置き過ぎ過剰も置かな過ぎ不足もほんとうに曖昧で、理や共通項ではうまく括れなくて、結局、雰囲気や印象や肌感覚や匂いに頼る羽目になり、けどまあ、このあたりに頼ってしまうのはやはり不安が残るんだよなー。過信も慢心も見栄も恥も怖くて、ふわふわしちゃう。
▼▼説明書や手順書を書く時の、目的があること、時系列順や箇条書き等々の情報の必要性、書きやすさ、あたりを、小説文に転化させる、ってほどではないにせよ、まあ、補助線くらいには出来ないかなー、って思いながら書いた。▼▼小説に対する、目的性が無いからこそ、の話は何度か聞いたことがあって、非常に好きな視座でもあるので、明確で明瞭な目的があるから書きやすい、っていう説明書の文章を、小説の中に、勝手気ままに移植しちゃったら、駄目、っていうか、些細な油断が崩壊の起点になっちゃうかも──変な脆弱性を誕生させちゃうかも──無闇な免疫機構が働き始めて自壊しちゃうかも、なんて比喩できるような恐怖の可能性は、まあ踏まえておかないと──油断させない程度の想像は保っておかないと、なー、とは思ったりもしているのだった。
▼▼説明書と小説じゃ、文章の目的性が逆、なんて言葉を書いたけど、ここは「逆」ではないほうがよいのかも、っていうのも思いついた。目的が明瞭なのと目的が曖昧なのが逆かは怪しい、し、小説は「目的がない」と言い切っちゃったほうがよい気もするし、目的性に関する「逆」や「裏」や「対偶」あたりを彷徨うくらいが小説らしい気もする。