温泉と疑いと答えを源流にしない文章

▼▼温泉系で最近よく遊んでいる。豊島園付近のお湯に浸かってきた。▼▼温泉について書ける言葉があるかな?って問いを持ってみて、即座に思いつける話はないけど疑ってかかることで思考は進みそうだ、って思って──思ったところから、物事に疑いの視線を向けることが物事を語りうる条件なのかな?って思いついて、でも別に疑わなくても書ける時あるよ?って思い直して、けど書けると思える時は単に過去に疑ったことがあってすでに答えを持ってるだけか……、ってさらに思い直して、つまり結局最後は「疑いを書くか答えを書くか」になるのかな、って考えたりした。
▼▼情景描写や行動描写を書いてる時は「疑いを書いてるんでも答えを書いてるんでもないもの」を書いてることになるかなと思った。けど、小狡く判断をねじ曲げて、所詮は疑いや答えの派生なのだ、とか、前提に疑いや答えがあるだろ、とか言うこともできるかと思える。文章の背後には判断があって、判断の背後には疑問がある、みたいなこと構造問題なのかなー。頻出構造に逆らいたいよー疑問から抜けて文章書きたいよー、って話でも別にないのだけど、抜けられない──あるいは抜きにくい、って状況に気づいたなら、抜けられたものを夢見ちゃうし憧れちゃう、なんて癖はあるのだった。