世界は称賛に値する

日記を書きます

誰かにわかったようなことを言うのと、人間にわかったようなこと言うの

▼▼特定の相手に対して「理解してるつもりになってる、と自覚した時」には「傲慢」を解釈できることが多々ある、のだけど、人間ってものを対象に「理解してるつもりになってる、と気づいた時」には、あんまり「傲慢」を解釈できない──傲慢さが背後にあるんじゃねーの、って疑惑の視線を向ける習慣ができてないな、って思った。▼▼物事を個別に対処している間は、ビビって慎重になってるのに、物事の全体像を見極めようとした結果として対象が曖昧になってくると、視認しづらさ確認しづらさを免罪符にしてちゃんと考えなくなる、みたいな匂いがあるのだった。
▼▼いわゆる「赤信号、みんなで渡れば怖くない」的なものに似てる、かな……? 構造が結構違ってるのに匂いはだいぶ似てる、なんて言える感触ある。
▼▼試行錯誤中。
▼▼試行錯誤して軽く見えてきた。▼▼つまり、個人相手の時は失礼や失敬を怖れてるのに、人間相手の時は失礼や失敬を思おうとしてないのだなー。微妙だ。思わないのも、思うほうがよいのかも、微妙。人間に失礼、って事態は怖れたり律したりしたほうがよい?
▼▼なんていうか、人間相手に理解や誤解や無理解を向けても誰も傷つけない、っていう前提を持っちゃってるんだろう。▼▼経験的なものとしては、確かに、人間を相手取った理解が明確に誰かを傷つけるような場面は、なかったように思う。思える。けど、人間に対しての理解感が、誰かに何か告げる時に影響を与えてることは当然ありそうだ、し、誰かを傷つける場面にも繋がっていることもありそうだ。ありそうに思えるから微妙。