世界は称賛に値する

日記を書きます

思えば遠くに来たものだ(昨日から)

▼▼昨晩ワイワイと遊んでる時、あまりに楽しくて、ふと、最近わりと頻繁に遭遇し対応している「業務的な不満状況」を思い浮かべてみたら、驚くほど「遠く」思えた。うまく気分転換ができてる、ってことの顕れであろう、と想像して、ほくほくした。▼▼軸足を動かせた──目線の基盤とか場面の基準やらを動かせたぜ……、っていう心理変化だと理解してみたのだった。場面転換──次のシーンに移動できている証左で捉える。
▼▼嫌な記憶が遠く思えるようになる、のは、比較的よいことだろう、とは考える。
▼▼時間が経ってもぜんぜん消えてくれなくて、いくら消そうと頑張ってみても──ようやく落ち着いて消えたように見えても、苛立ちや落胆が内奥や近辺で燻っていて、再燃し始める、って場面はよくある。結構遭遇する。うまいこと気分転換しようとしても、なかなか頭から離れてくれないぜ……、という状況にはわりと出会っている。▼▼ってのと対比して、距離を取れたように思える──遠く感じられるようになる、ってのは、まあ比較的よいことだよなー、と考えてしまうのだった。嬉しく思えてしまう。
▼▼不満が遠く思える、っていう状況が、単純かつ素直に「不満が燻る状況」の正反対と言えるのか? は、無論検証の余地があるのだけど、まあ見比べてみた次第だ。
▼▼昨日が遠く思える、のと、昨日が近く思える、のとでは、強いて言うなら的な判断になるにせよ、称揚できるのはどちらでしょう? と疑問文を脳裡に描いてみて、精確に問うなら、楽しかった昨日と不満だった昨日、っていう違いを導入して、別個に設問を設定せねば駄目かも、と思った。楽しかった昨日が近く思えてしまう、のと、不満だった昨日が近く思えてしまう、こと。楽しかった昨日が遠く思えてしまうのと、不満だった昨日が遠く思えてしまうこと。心理操作して誘導するなら、視線と姿勢はどちらに向ける?
▼▼あくまで連想話題だけど、寝起き時、稀に、昨日がすごく遠くに思える、って瞬間があったりするのだよなー。▼▼妙に壮大な夢を見てから目覚めたあとなどに起きやすい現象である。壮大すぎて「夢と現実の切り替え機能」が振り切れてしまい、完全に切り替えられなかった、的な、壮大な夢が残していく副産物なのかなー、なんて風に考えてみたりはしている。世界線切り替わったかな……?なんて考えてみたりもしている。▼▼っていう「昨日と今日じゃ世界が違う」的な意識って、楽しくて気持ちよい。すっきりする。新しい世界は基本的に気持ちよいものなのだろう、なんていう「雑な説」すら思えてしまうほどだ。リセット世界はいつだって素敵だ、って言えちゃうみたいな信仰の匂いかな。
▼▼故に、昨日が遠く思えるようになる──なりうるよう勤しむ環境作りや運動、は、素敵なことに思えちゃうのだよなー。推進したいぞって思ってしまう。
▼▼結局のところ──つまるところ、昨晩遊んでいた中で偶然かつ幸運にも感じ取ることのできた「昨日の遠さ具合」を、以後もうまく扱ってゆきたいものだよ、という欲を抱き始めたので、整理を含めて書いてみた。指向し直してみた。▼▼意識を毎日リセット的に切り替えちゃいたいのかい? と問われると、若干違和を覚えるところが、微妙点だ。