指をとめないで

▼▼発想を遮らず連想を邪魔せず指を動かし続ける──書き殴るように書き捨てるようにして書き続ける──論理性も合理性も諦める。なんていう型で文章を書くと頭脳によい意識によい判断によいよ、という説話の経験があって、まあまあ納得してる。こなすことで最終的に楽しくて素敵な文章ができあがるであろうことは想像できるし、むしろ実際的な経験もあるので思った以上に事実なのだよねーと判断できている。って話に従って今は文章を書いている。説話、という単語を選んだ箇所が実は不満だ。説話ではないだろ、と思う。けどたぶん忘れるだろう。あと二行か三行か書いたら脳内から消える。保持できないぜと思う。記憶はほんとうに危うい。文章書いてても記憶する性能はよくならない。っていうのは書いてみただけだ。事実と判断してない。むー。微妙だなー。発想連想の勢いに従うだけのこの執筆術を試すと、浮かんでしまう文章が前文に対するツッコミばっかりになっていくので、おのれの発想の型がすごく見えてくるのだけど、見えてきてすごく嫌で複雑な気分にもなってくる。理想的でないのだな。理想的な型を夢見てるんだろう。でも夢見てるといっても具体的なものじゃなくて、曖昧模糊で、そして曖昧な判断っていうのは実はぜんぜん判断ができてない状態なのだ、というのを、まあ二十代後半から三十代にかけて理解してきたような気がする。理解できたような記憶がある。たぶんそのあたりで理解したよなー、と今なら言える。理解は遅かったよな、っていろいろ思う。正直言って若い頃に理解できてたことなんて一つもなかったんじゃないかなとすら思ってる。つまり社会的には意味を成しているかのように見える二十歳での区切りなんて実際は気にも意識もする必要なかったなーと今は思ってるのだった。後悔じゃなくて。若者を軽視してる雰囲気の文脈になってきたかな。違うな。書きたくないし思ってないぞと思った。理解できてなかったんじゃなくて理解が浅かったんだよなというのも思った。雑談過ぎる。