世界は称賛に値する

日記を書きます

動画で物語創るのと、ゲームで物語創るの

▼▼想像した物語を「物語る」媒体としてテレビゲームが好きだった、っていうのはあるかと思う。脳内物語をゲームというジャンルで魅せたかった、って言える。まあ今でも同じように好きではある。テレビゲーム系媒体でお話創りたいなとはわりと思ってる。サウンドノベル眺めて、素敵だなあと呟く──画像音楽付小説なんて楽しすぎるし好きすぎる創ってみたいよー、っていう好感と欲求は、相変わらず持っている、のだった。
▼▼最近、動画編集を企ててて──動画型で「物語る」行為を試してみながら、動画型物語とゲーム型物語の特徴を比較できるかなー、と考えていた。最低限の違いがあるから楽しんではしゃいでる気はするけど、実際何が違うんだろう、っていう疑問だ。ほんとうに違いがあるのかな? 新鮮に思えてるだけなんじゃないの? と疑ってもいる。
▼▼動画型で「物語り」行為を行なう、と雑に言っても、想定しているのはアニメーション型ほど立派なものではなくて、比較的シンプルな紙芝居型を想定している。現時点での技術水準から判断して妥当な切り口だからだろう。でもって、シンプル紙芝居動画は、所詮は操作が不要なだけのアドベンチャーゲームでしょ? と突っ込まれても、間違いではなくて、だから、実際問題違いがあるの? っていう印象も浮かんでしまうのだ。
▼▼以前サウンドノベル制作ソフトで物語っていた時のことを思い出している。がっつり嵌っていた時期がある。当時の環境や心境を考えてみる──比べてみようと思った。現在動画媒体を編集しつつ物語ってる、のと、ほんとうにありかたが違うのかな? 楽しさがぜんぜん違う!と言える? 送り手の楽しさや受け手の楽しさががらりと変質している箇所はある? 無論同じ楽しみだって持ってるんだろうけどならどこが同じ?
▼▼明白な違いはUIと物語構造であろう、と改めて考える。UIはいわゆるユーザーインターフェースである。当然ながら「ボタン操作」と「見てるだけ」は違う。雰囲気や感触がおおきく変質する、はずだ。雰囲気や感触が変わり──変わることで、新奇な印象を持たせうるなら、ぜんぜん違うものだ、と見なされることもありうるだろう。取る行動の違いがおおきな違いでないはずはあるまい、とは思える。
▼▼単純に考えると、操作要素は、物語介入度の向上を意識/錯覚させて没入度を高める可能性がありそうで。けど面倒臭いと思われる可能性も高めそう。視聴要素は、逆に、物語に対する没入度を若干下げつつ、面倒臭さを少しだけ軽減しそうかな。けどまあ「すこし」ではありそうだし、動画を面倒に思う精神も想像できるので核を見誤ってるかもだ。
▼▼物語構造の違いっていうのは、単純に言うと「選択肢と分岐があるかどうか」で、物語進行に載せて、言わば自然体で、選択肢や分岐を作れるかどうか、でもある。受動者受け手が「選択肢や分岐というゲーム的要素が最初からあると思って進めているか」っていうのは、受動感覚におおきな違いを残すのではないかなー。独特の楽しさにも繋げられるのではないかと思う。選択肢や分岐はゲーム的要素なのかな?とは思った。
▼▼物語構造の違い、には、だいぶ無頓着なところがある、のだよなー。選択肢や分岐を若干軽視しているところがある、のだ。独特の楽しさを感得できていないのだろう。サウンドノベルを制作しつつ「見てるだけでいいよー」と言えてしまう心境はあった。あったし、実際使っていなかった。活用できていなかったと言えると思う。思想が「小説でよいじゃん」型なのだ。サウンドノベルやビジュアルノベル型ではない雰囲気はある。
▼▼サウンドノベルツクールが好きで、サターン版あたりかなりやってて、けど、分岐はぜんぜん活用できていなかった、面倒がって使おうとしてなかった、ような性癖がある。
▼▼まあでも最近になって好意が増したところは確実にあるしなー。選択肢と分岐があるからこそ、と言える物語にも出逢う機会があって、結局好きになってる。なので、選択肢や分岐も素敵な活用がありますな、って言葉が脳内整理してたら出てきた次第であり、動画で物語る素敵さはいずこにあるのでしょう、と、改めて考え始める落ちとなった。