世界は称賛に値する

日記を書きます

書き出し

 流石にわかりにくすぎるのではないかなーと思ったのでいろいろ書き直した。というのを記録しようとする試みも珍しいので書いておく。

 書き出しがよければ、やっぱり、文章はわりと、軽々書けるものだなあ、と思った。
 書き出しがよいと、うまいこと先に続いてくれる。一番目の文章がよい感じだと、その次の(二番目の)文章が、これまたうまい感じで湧いてきて、さらにその次まで、うまいこと続いてくれる。みたいな感じなのだ。
 ではよい書き出しの定義とは何だろう? と続けるのは、違うよなあ、と考え直す。これは、よい感じの一番目の文章を受けて出てきた二番目の文章、ではない。ないように思える。
 ここまで、こうして文章を書いてみると──書いてしまうと、なんていうか、構造的に妙に矛盾してきたというか、ぐだぐだになってきたというか、混線してきたというか、結局「続いてる」わけで、定義を問う二番目の文章とかは駄目っぽい、って言ってるのは、結局のところほんとうなの? うそなの? って疑問がもたげてきたが、この文章は、丁寧に見たら、「よい書き出しの定義とは?」と問う二番目の文章を採用したものではないのだから、まあ、矛盾とかはしてないか。まあよいや。
 最初の文章としてよさげなのは、誤解を招きそう!って思えるものなのかな、というようなことを思いついた。誤解を誘うような文言を書いてしまって、なんとなくアワワワしながら、言葉を重ねて(重ねたくなって)説明を続ける、っていうのと、ノウハウというかやり方というかそういうのを説明するようにして言葉を続ける、っていうのは、やっぱり違うんだよなあ。
 で、この文章は「誤解されそうだと思えてしまってるので思っていることをきちんと伝えようとして(誤解を解消するために)説明を重ねている」感じなのである。
 最初の文章で誤解を招くような範囲の話をしてから、二番目の文章で「良い書き出しの定義とは?」って書いたりしちゃうと、なんか、マニュアル的な説明をしてる感じになるのですよなー。
 精神というか感情というか、モチベーションの話をしてるのかな、って思えてきた。
 誤解されたくない! っていう熱が湧くと、文章続けたくなる、という話かな。
 良い書き出しの定義、については、つまるところ、誤解されてもいいっスよー、と、どこかで思っているというか、そこは各自各位で決めて下さい、下さってかまいません、みたいな感じがあるんじゃないかな。と書きながら、実際どうだろう、と結構検証してみたけれど、確かにわりとそういう感じがありそうだった。あるいは、そこは誤解されようがどういう感じで配置されようが言いたいことには支障がないッスねえ(と感じられてしまってる)ってことかなー。
 雑談で一ヶ月がんばろう計画も続いたような無理矢理続けたような感じだ。楽しい愉しい。たのしかった。楽しいと愉しいの違いが(辞書とかぼんやり眺めて)いろいろ考えたことがあったけどいまだ不明のままだ。おもしろいとの区別も微妙だな。わかる分かる解る判る、の選別のほうがまだ整理できていると思う(連想飛躍にもほどがありますが……)。ちなみに「全部まとめた」のと「区分け」と「解体」と「判断」、の違いかな。どれも適用できる、って場面も多々だし、ひらがな、ってだけの優先順位で最初のを使うことも多いけど。話変わってきたので終わる。