世界は称賛に値する

日記を書きます

言葉遊び

 言葉遊びという表現があまり好きじゃないな、ってまあまあ考えることは多い。違和感とか嫌悪感とかが浮かぶのだ。真実がなさそうな気配が漂ってしまうからではないか、と考えてみた。真実というか真理というか、まあそんなことを言ってみたわけだけど、実際のところの定義は、非常に微妙だ。非常に曖昧である。なんていうか、それ合ってるよ、とか、なかなか妥当な線だぜ、とか、ピンポーン、とか言ってみせる時の、思ってみせる時の、あの、すっと、突破できたかのような、通過できたような、透き通るような、爽快感じみたあれが、そういうのの源泉なのかな、とは思っている。──言葉の定義、を考える時に、感情的や肉体的な感覚を元手にして考え始める癖があるなあ自分は。
 言葉遊びだ、という指摘は、そのスッキリ感を、汚す、というか、滞らせる、というか、凍てつかせる、というか、亡き者にする感じが、していて、好きじゃないのだった。圧殺したり排除したり麻痺させるする形容だ、と感じてしまう。正確に言うと、精密に考えればそういうスッキリ感を覚えるに値するようなきちんとした道理(を後ろ盾にしている言葉)でさえ、表面だけ繕われたかのような見た目美人(性格悪し)に見せる効力があるのではないかな、っていうのを思うのだ。でもまあそれは、スッキリ感を感じるべきではない、という言葉の使い方の時もあって、それを避けるために……、……? 書いてて意味わからなくなった。えーと。考え直す。言葉を選び直す。
 言葉遊びだ、という形容が「真」であることなんてないよな、というのが、前提にあるかな。いや、言葉遊びなのでまったく真に受ける必要がない、と確実に判断してよい場面なんてない、と思っているのか。
 言葉遊びでも意味を持ちうる。持たせうる。言葉は確かに勝手に踊ったりするし、道理や理路が変なこともある。でも、無駄、と切り捨てるのは君の勝手であり、君の自由だけど、それしかないかのように言うのは、過剰だろう。みたいな?
 ただし、それしかないぜ! という過剰表現まで使って、相対的な形で「意味を低く見るべき!」と主張するのはアリ、かと思う。ので、言葉遊びだ、という形容を「戦略的に」使う、みたいなのはよいけど、それは正しくはなくて、あくまでアジテートや視線の矛先を変えるための小手先であり、それを忘れちゃ駄目、っていうか、真実のように理解して「言葉遊びだねえ所詮」なんて安易に人の言葉を退けちゃ駄目だろ、っていうようなことを考えているのだと思う。
 というような理屈をこねて、言葉遊びでしょ所詮、と言われることを怖れているだけ(なので、誤魔化す術、正当化する術を探してるだけ)のような気がしてきたので終わろうかな。
 この文章が、ちょこちょこ破綻したり、勝手な現実を起ち上げてそれに沿うようにもっともらしく言っているだけで、単なる「言葉遊び」である可能性はある。が、これを読んで、誰かのインスピレーションがピピーンと来る可能性もあり、言葉遊びだ、っていう形容が、その可能性を殺す方向に向かわせるなら(向かわせそうな気がしているので)、あんまり好きじゃないな、っていうような話だろう。
 言葉遊び、の意味するところって、そんなことだったっけ? と思い始めた。