特別扱い

 普通に思考を書いていくと、分析や解析、整理しよう、という処理の記録になるようだ、ということが見え始めた。いや、まあ、以前から見えていたことかなー。改めて思っただけか。そして、改めて思ってばっかりだな。言い換えるなら、やっぱり忘れてばっかりだね、ってことを思っているのだった。自己認識、自己分析、すら、安定してない。すぐに忘れて、また遭遇して、ああこんなだったっけ、って思っている。これは幸せなことだろうか。まあ幸せに繋げることもできそうだし、不幸、って顔をするのも簡単かもねー。顔を見せるだけなら簡単だ、って話にしてもいいような気もしてきた。
 でも、表情を造れる、捏造できる、標榜できる、みたいなことが、たとえばあったって、表情は、まあ、嘘じゃないことが多い。誰かの表情を見て、あれは嘘かも、ってあんまり思わない。言葉より「真実感」が強い。かな? まあ、真実だろう、って改めて思わないくらい自明なものだって思って生きてる。信じてる度合いが強いかなと思う。表情で嘘をつく、ってことが、たいして意味を持たない日々、生活、文化、世界、人生、なんだよなー、っていうのも思った。だからどうした? ソーワット? 
 だからなに? ビジネスなら、それを問うてもいいかもだなあ、と経験から思った。ソーワットという言葉との出逢いの経験、積み重ねが思わせた。ビジネス? なんでビジネスだけ特権的なのさー、って思って、いや、違う、そうじゃないか、って考え直す。特別とか特権とかじゃあない。あるものに対して「それがなに? だからなに?」って問う時、その問いは、ビジネスって自分が認識してる領域で、結構活かせるものなんだけど、それが、なんていうか、ビジネスというものの特権化に繋がるわけではない、そういう整理は違うなあ、って思った。もうちょっと整理して喋ればいいのに、って思ったが、あえてそれを残しておく。
 センチメンタルな、感情的で、感傷的で、情緒的な、文章を、こういう勢い文章を書いている時に、書いてないなー、書こうと思えてないなあ、と思ったのだった。話飛んだような気がするが、まあよい。
 描写みたいなことを考えている。
 あと、語りかける言葉、みたいなことを考えている。
 それらが書きたいような気もする。ただ、特権的に扱うのは違うのでは、っていうようなことも考えてしまう。しまった。特別扱いしたくないの? しかしそもそも、特別扱いってなんですかね? 誰かを、何かを、特別扱いすることなんて、できるんだろうか。