最初はばっさりさようなら

 小説作法や小説技術論で、最初のところは書き終わったあとばっさり棄てちゃえ、みたいなやり方を聞くことがあった。複数回聞いたか読んだかの記憶がある。
 なるほどねえ、と思ったことが多かった。頭の中で、シミュレートしてみて、あるいは実際に自分が書いたものを見つめ直してみて、あー、確かに、これを切ったら、最初の頭の動きは記録しないようにしたら、よくなるかも、って思えたことが、多かった。
 前置きって、確かに、意外なほど無駄が多い。多いようだ、って今も思えている。書き始めた瞬間は、頭の中が回転開始であり、情報量が多く、回転も速かったりして、いろいろと、ぐだぐだと、書きつらねてしまいたくなってしまうから、だろう。なので、何も考えずに文章を書き始めると本題(何を本題とするかによるけど)までが結構遠くなりがちなのだ。読み手を舐めてる、甘く見てる、という言いかたをしてもよいかも──よい場合もあるんじゃないかなって思う。ちゃんと前置きしておかないと読み手の人達にはわかってもらえないかもしれないから……、という心境による「前置きの長さ」も、まあ、ありえるだろうからだ。もちろんそれを、読み手の方を向いた執筆の技術、として見ることは可能だし、丁寧に前置きしないと読み手にとってよくわからないものになる、と判断できる文章だって全然ありえるのだから、前置きがおしなべて駄目、ってわけじゃなくて、真剣に考え抜かれた前置きはよいものだけど、そういうものばかりでは全然なく、どちらかと言えば漠然と書かれることのほうが多く、なので、粗雑な前置きを諫める言葉が必要なのさ、という風に捉えておくべきなんだろう。で、そういう意味合いを込めて、広める意図を持って、ばっさり切っちゃえー、と言う気持ちは、とてもわかる。わかるし、とても妥当で、周到なやり方だと思う。
 インパクトのある言葉で伝えるっていうのはよいことだ。世界を変えようとするならなおさらだろう。印象の弱い言葉が「世界を変えうる」ようにはあんまり思えない。世界を変えようとするなんて! みたいな、傲慢さへの反駁とかが、ちょっと頭の隅に思いついたのだけど、世界を変えようとすることの傲慢さとかは、正直わりとどうでもよい。どうでもよいっていうか、世界を変えようとする、っていう表現だけでは、実際どういう行動を何を指してるのか、が、あまり明瞭でないので、そこで傲慢とか傲慢じゃないとか言ってもきちんと判断できません、っていうようなことを思った。世界を変えよう、という認識だけじゃ傲慢とまでは言えないような気がするってことである。文句言うには(それが駄目なもの、僕や君に不幸を呼ぶものだと判断するためには)ほかにもう一つくらい要素が必要だ、というようなことが思考できている。
 という前置きを切ったほうがいいかなあと思いながら書いているわけだけど、まあ前置きのつもりで書いてないので切る意味はたぶんない。いや、なくはないか……。まあどっちでもよい。どうせ切らないので関係ない。そういう「最終的に良くなる」ものを目指して書いてないのだ。とまで言っちゃうのは過言なわけだけど、とりあえず、最近は、執筆や思考のプロセスを残そう、あるいは、公開してしまって、恥ずかしくもなったりするので、改善しよう精神が意識されて、強化されて、成長する、みたいな狙いでいろいろと考えながら試しているので、公開範囲を調整したりするのは、狙いからはずれてしまうからねえ、なんて考えていた。狙いからはずれようがはずれまいがよいものを目指せよ、と批難してくる人格が湧いてきたので、ちょっとこの問題からは視線をはずしておこうかな。
 最初の段落はぐだぐだと意味のないことを(ばっさり切ってしまえと言われてしまいかねないことを)人間は書きがちなので、あとで切られてしまうかも……、ここはなくていいんじゃないかなと読み手とか編集者とか(脳内編集者)に言われてしまうかも……、ということを最初から意識して、頭に思い浮かべながら書き出しを考えることは、とてもよいよー、ということの言い換えなんだと思った。そういう意識だけで文章が変わってくる。最初の段落がいらないものじゃなくなってくる。実際の経験上、そういうことを意識してみたら、そういうよさが湧いてきたよ、ってことがあったと思う。
 最初をばっさり切ったところで、よさが湧いてこない人だって、もちろん、いるとは思う。あと、あくまで小説論であり、小説のほうがそれに該当することが多いと思うのだけど、小説じゃなくてもまあ使えたりする、ことはあるかなあと思う。これもまあ人によるか。小説みたいな随筆を書く人もいるし、そうじゃない人もいるってことだ。いろいろだ。