世界は称賛に値する

日記を書きます

睡眠不足と栄養不足と諦めを正当化する理由

 睡眠と食事が大切だなあと思うようになってきた。
 って書いたところで一旦思考が停滞したけど、無理矢理続けることにする。この「停滞を無理矢理推し進める」感じが、結構前から欲しいと思っていたところであり、なので、最近、あえて、執筆の癖を変えて、掴み取ろうとしているところだ。だぜ、って言える。丁寧で、こぎれいな、文章よりも、思考を進めることを優先する、みたいな構造、能力を、目標としている。そういう文章も、いつでも書けるような、慣れが欲しいなあ、と言ってもいい。っていうか、こちらのほうが的確かな。
 睡眠や食事が大切だと思ってなかったってことだ。話を戻すけど。
 以前は、そういうのがなくても、意志で何とかなるって思っていた。気のせいなのかもだけど、実際何とかなっていたようにも思うのだよな。意志と根性と、まあ頑張りで何とかなっていた。というか、何とかなってないなあと思う機会がなかった。なんでだったのだろう。若さってやつか? 若さの力?
 若さなんてあるの? ってまだまだ思ってしまいがちな段階ではあるので、ちょっとまあすぐ納得したくないところなんだけど、でも若さなんて関係ないとは言えなさそうだし、そもそもこのあたりに対してもやもや思うのは、加齢によって弱くなってる、って思いたくない、っていうよりは、あんまり実感ないのに、いきなりこういうところで都合よく発現するようなことがあったりするのかなあ、持ち出してきていいのか? という疑問があるだけであって、若さ概念に逆らう理由はあんまりないんだけど、でもとにかく、以前は若さの力でカバーできてたので睡眠不足と栄養不足でも何とかなっていたんだけど、最近はくたびれてきて(くたびれるって草臥れるって書く。初めて知ったので書いとく)寝たり食べたりしないと駄目になってきた、っていうのは、思いたくないのだった。思いたくない? 違うなあ。ちょっと違う、って感じて始めたのがわかった。
 単純に、昔と今じゃ基準値、目標値が違ってて──最近は高くなってきてて、昔は栄養不足と睡眠不足でダラダラやってても「基準達成!」って思えていたけど、最近は基準が高くなったので、栄養不足や睡眠不足でウダウダやってるだけじゃ「全然辿り着けてないなあ」って思ってしまう、ってだけなような気がしてきた。
 ?
 基準は高くしたのかなー? 
 って書きそうになったけど、学生時代に比べたらどう考えても高くなってる。諸々甘えてたのは憶えてるじゃん、って思った。
 社会は厳しいとか全然言う気ないけど、自分がものすごく甘えてて、というか知らないことが多くて、なんていうか、社会が厳しいっていうよりは、勘違いがすごく多かったので、判断が甘かったなあ、なので、相対的に厳しく思える構造になっていたなあ、というのはすごく思う。はっきり思える。ビジネスあたりが特によくわかってなくて、経費という概念とかさっぱり抜け落ちていたよ、とか今なら思える。
 あ、これでもまあ、違和感あるなあ。
 ぐるぐる考えるか。
 栄養と睡眠がちゃんと取れてればすごく高い位置まで昇れる、性能を、能力を、発揮できる、ってことに対しての、違和感、かな? ああ、いや、違うか。栄養と睡眠を「理由として持ち出せる」ような思想になり始めていることによって、弱くなってしまうのではないか、っていうことに対する、怖れ、とかではないかなー。たぶんそうだ。外部環境が整っていないと全力を発揮できません、と断言、公言、あるいは、それが「基本」である、と設定することが、怖い。怖くて、嫌で、気にくわない、のだ。
 うーん。
 わかってきたような気はする。過去に何度も思ったようなことではあるんだけど。
 諦める理由があると──諦めることを正当化できる理由が頭の片隅にあると、諦めが早くなる。これは、早くなる人と早くならない人がいる話ではあるんだろうし、状況にもよる話でもあるんだろうけど、どちらにせよ、自分は、早くなることがある側の人間である。あくまでも「たまには」だけど、たまにはあってしまう、ってことで、そこは、嘘ついても誤魔化してもしょうがない。コイツはわかりやすい理由を世界観の片隅に置かれるとそれにすがってサボるように諦めてしまうことが、ある。逆らえないことがある。逆らえることもあるけど、逆らえないこともある。
 その脆弱さが、意志の弱さが、ものすごく運悪く、致命的な状況で、発現して、誰かに迷惑かけそうで、そこが怖いのだ。
 睡眠不足と栄養不足で全力が発揮できないことがある、って認識は、状況や環境が「実際そうである、と判断できる」ような、前述の条件に適合すると思えるような時、諦める理由として働きうる認識だよなあ、って思えてしまうのである。
 諦めてもいいんだ、駄目な時は駄目なんだから、という話はもちろんあってよい。
 だからこそ駄目じゃない時を活かせ、あるいは、だからこそ駄目じゃない状況を構築するよう事前準備せよ、とか、言えるようになっておくことは、いいことだろう。諦めてもいいよから始めてそのあたりに向かうことは、よいことだと思う。でも、駄目判断になることもありそうで、経験から言って、自分の場合、駄目な判断になることが、自分的に許せない割合で、ありそうなのだよなあ。そして、そういう認識が、背景にあるので、うわあやだなあ、って思ってしまう。
 ビックリするほど混乱した思考を書いたような気がする。楽しかった。