雑談のことはじめ

 結構縛りを多くして文章を書いている。経験から培養して育ててきたものだ。満足いく結果を残せるようなシステムになっている。わりと成功しているほうだろう。納得のいくやりかたを見つけているのだ。が、安定してきてしまっているので、改善もまた停滞していて、壊して再構築しようかな、みたいなことを考えている。ので、壊した。今は極力縛りを無くす方向で執筆している。ブツ切りにして文章を書こう、という枷がわずかに残っている気配はあるかな。これも無くそうか。
 なんでもできる人になりたい、というのが以前からある。というか、根本的なところにある。のは自覚していて、なので、まあ、否定する気もないというか、おおきく見ると基本的にはそちらに進むようになっている、し、している。自分を満足させないと駄目だよねえ、というのもまた基本的なところで思っているからだ。で、なんでもできるためにはなんでも試していかないと駄目なんだけど、ある能力を育てたり鍛えたりするためにはそれだけに注力しないといけないところもあって、つまり、縛らないといけなくなったりする。縛ると「なんでもできる」からは離れるような印象を持ててしまう。が、縛ることもまた「なんでもできる」の範疇であると捉え直せば言い訳はきく。言い訳が効けばいいのかいとは思うが言い訳が効けばいいのでは? という思考の間は言い訳を正当化できなくなるけど、まあ、瞬間瞬間であれば「できる場面」だってありうる、ということを捉えておくくらいしか今はできないかな。というかこのへんは思考停止があるのであとで考えよう。
 論理的なことが苦手なので論理ばっかり意識して文章を書いていた時期がある。まあ影響も残っている。ブツ切り文章書きがそれで、短文を連ねて、その繋がりを常に意識しておくことで、論理、というものを理解しようとした。わりと成功したんじゃないかな、と判断していて、なので次は、では文章を繋げて見せた時にでてくる「変化」は、何なんだろう、と思って、繋げて書いてみせていろいろ印象を動かして試したみたりもするようになった。いまはこのあたりにいると思う。繋げるとそれはそれで「妙味や妙趣」が生まれたりする。人間の頭の中で意味を繋げまくると結構おもしろくなる。追い切れなくて感触だけで理解しようとしたりするからだろう、と説明できるようなおもしろさは、簡単に理解できるところなのでそれだけ語ってみたけど、それだけでもないだろう。そこもまたあとで。あとで、って言っておけばいいと思ってるところはある。あとで、って自分に言っておくと、わりとほんとうに「あとで」考えたりするからだ。経験則だ。
 デザイン重視で言葉を書くこと──なので好きじゃない言葉はあんまり使わない、好きじゃない置き方はあんまりしない。指示代名詞はあんまり使わない──散漫になりかねないし散漫にならないよう注意するにはまず指示代名詞がない文章に慣れて、指示代名詞を使ってもそれを損なわないようにする、ことを可能にするための「本来」に慣れる必要があるから。改行はあんまりしない。漢字は好きな配分で使う──平仮名が多ければ読みやすくてよい、という単調な指針は盲信しない──もちろんそういうこともあるだろうけどそれはそれ。なんてのが、最近脳裡にあった文章縛りかな。片仮名、というよりは外来語をあまり使わない、とかもあった。というのを、あえて壊して、なんでもできる、に近づいていこう、というのがおおきな名目であり、最近時間がなく、縛りに従うと時間がかかるので、時間短縮と文章の幅拡げを同時に達成すべくこのあたりがよいアイデアなのでは? と考えて、このような判断に至ってみた。
 という文章にすごく違和感を覚える人間なのである。というか、違和感を覚えてしまえるだけの習慣ができてしまっていたのだった。
 直そう、とか、直したほうが高度だ、というのではない。いや、後者は少しあるかな……。まあいいや。なんでもできる、を達成するために、ちょっと不慣れなものにも挑戦してみよう、っていうだけの話のような、気はするかな。もっと突き詰めるといろいろ出てくると思うのだけど、とにかく、このような境地に至ったことはまた、運命というか偶然というか、いや、こういう言葉を並べると間違った印象をあたえそうなのでやめておくけど、えっと、うーん、おおこれいいじゃん、やろう、と思える瞬間が楽しくてよいよね、って言いたいだけのように思った。
 後の自分に告げておくが、これを書き直したいと確実に思うであろうけど、誤字脱字以外は直さない、くらいでいたほうが、成長に繋がると思う。成長って何だろう、という疑問もあとでにしておくとよい。だって君は君の成長を知っているでしょう? みたいな?