世界は称賛に値する

日記を書きます

僕は僕の感情を、えーと、操作できるどころか、感情に対して「何かができる」とか、そもそも思っていいんですかね?的な疑問、から

▼▼周辺環境を整備したり解釈角度を調整したりする、ことで、胸中に湧き出る感情まで狙って動かそうとすることは、まあ可能ではあるだろう、とは思っている。▼▼っていう判断について、ワタシは感情を操作できます、という「断定的で省略形な姿」で、理解させてしまうのって──認識させてしまうのって、やっぱり結構危ういものなのかなあ、と考えていた。悪しき結果は沢山思いつけそうである。いずれ思い上がってしまいそうだから、が最たるものかなあ。確かに支配者ヅラしてしまいそうで足下掬われそうだ。
▼▼思考放棄気味だなと気づいた。取り戻そう足掻いてみましょう、と思い直してみる。
▼▼対象のまわりの状況を整えて対象自体を改変してみせられること、について、ワタシは対象を操作できるのですよ、って判断してしまうことは、危ういぞ、って認識してしまう習性が、明らかかつ強靱に、ある。けど、実際問題、問題点とか難点とか言えるほどのものなのかなあ? 問い続けるほどの何かがある? ▼▼と同時に疑問に浮かぶのは、危ういぞ、と思わせているものは何なんだろう? ということであって、なんていうか、周囲を変えられて対象を変えられるなら別に「変えられるよ」って思ったっていいのでは?
▼▼因果関係を理解しきって把握しきって掌握しきってます、なんて思い始めることに対しての恐怖、みたいなのがある、のかなあ? ありそうだな。故障や不調を調査しようとしている最中に、設定や環境をいろいろと動かしてみて、原因はここかあ、って思えることは、実際結構あって、けれど、意外にも勘違いであり、余計な調整をしたことで、酷く致命的なミスに繋げてしまうことも、また、あったりする。因果関係の把握ミスが状況を悪化させてしまうことってあった。という怖さからの派生は、ありうるからなあ。
▼▼以下、まとめとして。
▼▼因果関係に関しては、可能な限り、細かく、正確に、繊細に、敏感に、言葉多く、油断せず、語れるだけ語らないと、駄目! 粗雑乱雑乱暴粗暴は絶対駄目! なんていう経験則があって、恐怖すら可能な領域まで踏み込ませてしまっているようだ。と自覚した。