月曜日の始まり

▼▼ありがとう、より、どうもありがとう、のほうが好きだな。改めて思って、改めた。
▼▼起床時刻は午前10時。勤務は休み。見舞いに行く予定がある。途中か帰途で書店に寄るだろうけど、買う予定は特にない。無論、欲しいものは沢山である。
▼▼昨夜は帰り際にブックオフで『フォーカス』が売っていて、買おうか迷った。

昨日の備忘録とおすすめと感銘の記録です。楽しかったし活かしたいと願っております。

→ 「そうした言葉という闘争舞台の遡上に「自由」が上げられることで、自由は観念化させられてしまい、極論として思想陣営の「旗頭」に祭り上げられ、設計概念の一要素とではなく、宗教的教義のような絶対的な信仰対象扱いされてしまうようなことに陥ってしまうのではないかと。  これも「状態」を「目標(理想)」のように取り扱うことで生じてしまう捩れた錯覚の一種なんではないかなあ。」

→ 「さらに、そのような形で喚起された視覚的な記憶(の「組み合わせ」)は、その視覚像そのものというだけではなく、いくつかの視覚像の隙間、そこには含まれていない欠落や空白をきわだたせる。そしてその空白の有り様こそが、そこに生起している感覚には、その記憶を喚起しているであろう誰かの存在、その感情、が、そもそもその基底にあるのだということを強く感じさせる。感覚そのものと、その感覚が「そこ」において生起している場所(誰か)が、感覚と感覚とがモンタージュされる時にあらわれるイメージの隙間(ブランク)の力によって結びつく」

→ 「あえてばかばかしい「小さな行動」から始める  「チョコレートは食べる、だが最初の一口は捨てる」」

→ 「じゃぁ、時間をチェックする時計と自販機をセットにして置いたら、購買が促進できるのでは?」

→ 「翻訳小説についてぼくとくっちゃべってくれる人、それについておもしろい文章を書いてくれる人がもっと増えてくれたらいいなと思うのです。だからこうして書いてみることで、翻訳小説を手に取ってくれる人がもっと増えてくれればな、と、そう考えて今日はこうして長々と書いてみようと思ったわけです。  前置きが長くなりましたが、以下では、ぼくが翻訳小説の愉しみであると考えるものを具体的に2つ挙げてみることにします」

→ 「ところが、それまで日本で読まれていた海外文学には、旧態依然とした翻訳調の文体しか存在していなかった。ヴォネガットやブローティガンの文章が持つ声を受け止められるような日本語の文体、翻訳のスタイルがなかった。七五年に、ブローティガンの小説『アメリカの鱒釣り』の日本語訳を刊行した藤本のすごいところは、まったくあたらしい翻訳のかたちを、つまりはあたらしいコードを、ほとんどひとりで作り上げてしまったことにある」