「三十歳までなんか生きるな」と思っていた(保阪和志)を読み終えた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

▼▼勝手に割り切らないで、複雑性を維持して、考え続けないとねえ、なんて思わせてもらえる人物のひとりである、と著者に対して思っている。読んでいて、まだ書き足りなく考え足りないのだなあ、と思える書き手と出逢えることは、幸せだと思ったりした。記述行為、言語化行為、によって、世界に枝葉を伸ばしていて、けどまだ足りず、楽しんで伸ばし続けているのだなあ、という姿に感銘を受ける、などと言ってもよい。

 それからもうひとつ、「考える」ことにとって大事なこととして、「やりそこなった」経験というのがある。「やりそこなった」という思いを忘れないかぎり、人は生きることに対してあの頃(誰にも憶えがあるはずのあの頃)と同じ真剣さを持っていることができる。あの頃を忘れたり、あの頃の外に立ったりしたら、生きることは自分自身のものでなく、どこにでもいる人たちの模倣になってしまう。
──P.3

 そこが偉いと思うのだ。彼だってもう四十代も半ばの大学の先生だ。何冊か本を書いていれば、みんなから「難しすぎて読めない」と言われるだろうから、少しは妥協することを学習しそうなものだが、彼はそうしない。なぜなら、妥協して読者に伝わりやすくしてしまったら、彼の中にある生命についてのイメージが損なわれたり弱くなったりしてしまうからだ。“生命”“精神”“世界”“人間”というような、思考の根本のそのまた根本であるような概念は、ひとりの人間が自分の経験と知識と肉体を総動員してイメージを練り上げるものだから、自前のイメージになればなるほど人に伝わらない。
 だいぶ卑近な例になるが、たとえば今、あなた自身がはじめて経験する痛さを感じているとして、その痛さを人に伝えようとするときに、あなたにはどんな言葉があるだろうか? わけのわからない身振り手振りをしたり、聞いたこともない擬態語を使ったりするしかないのではないか。
──P.62

 考えることとやっていることがリンクしなければ、人は何でも言うことができる。しかし、その二つがリンクしたら、「言ってることとやってることが違うじゃないか」ということになる。他人からそう言われるのではなく、自分の心の中でそれを感じる。そういうリンクする地点で考えたり書いたりしなければ意味がない。
──P.72

 しかし「わかっている」のが錯覚でしかないとしても「見えている」というのは人間にとって重要なことで、「見えている」かぎり「わかっている」という錯覚を持ちつづけることができる。なんだかとんでもない循環論法を書いているような気がするが、空間については私たちは「わかっている」という錯覚をたぶん一生持ちつづけることができるのだろう。
 それに対して時間は目の前にはない(結局、またまた私は時間と空間を比較してしまっている)。時間というのは本当に「ある」ものなのか、ということさえ疑わしくなるときがある。
──P.163

《94点》★★★★★