月曜日の始まり

▼▼論理を棄てる、ってことについて改めて考えていた。▼▼論理的整合性をがしがし下降させていくのは全然アリだろうけど、完全消滅は無理かもと思う。小さくすること、下げることは、できるだろう。強弱は──強弱なら、いじれそうだなと思う。
▼▼論理性自体は消せないにせよ、論理性という物差しを持ち出させないよう読み手の意識を動かしてみせるような挑戦はアリなんじゃないかな、って考えてみる。▼▼論理性を可視化するような形で語ってみせて、姿を見せてから、否定することで、攻撃し、撃退してみせることで、視界内から「なくなった」ように感じさせて、論理を廃棄したぜー、を謳ってみせることも、可能ではないかな、っていう戦術である。まあまあアリかな。

備忘録およびおすすめニュースを志しつつ、昨日読んだものの記憶の記録です。

→ 「ビデオゲームをゲーム性でのみ語ろうとすることの危険性は、脱衣部分を無視して脱衣麻雀の面白さを語ろうとしてしまうところにある。それじゃ麻雀の面白さを語ることにしかならない。ビデオゲームの大半は、純然たるゲーム性だけで成り立っているわけでも無いし、脱衣部分だけで成り立っているわけでもない(それじゃエロ画像集だ)。まあこの脱衣部分ってところには美麗なムービーとか残虐な暴力描写とか色んな単語が当てはまりますわな」

→ 「ツイッターでは魂を切り刻んで言葉を紡いでいる人は少なくないはず。そんな人のつぶやきの集積は魂の遍歴といっていいと思う。そんな人にはずっといてほしい、せめてアカウントやログは残しておいてほしい、と切に願う。いつか戻ってくるかもしれないから。いつか誰かが魂を打たれるかもしれないから」

→ 「小説としてのダイナミズムを感じたのは、雨が降る、雪が積もる、といったシーンにすばらしい説得力があることで、「雨が降る」というごくあたりまえのことが、これだけパワフルに描けるものなのかと感心しました」

→ 「固有名にうそ臭さというか抵抗を感じて、「A」としたりただ「男」はとしたりするような小説は過去にも随分あったとは思うが、鹿島田の場合は、おそらく小説を書く以前にすでにそこにあるかのような「自我」も信じていないのだろう。年齢と性別と名前を与えた瞬間から、作者と読者のあいだに約束事のようにたちあがって前提とされてしまう何かを信じないこと。細かいリアルなエピソードを重ね、人物を造形し、そこにある感情を暗黙に伺わせるのではなく、ダイレクトに感情そのものを吟味してしまうような小説」

→ 「そういう楽しい大学生活を贈るために絶対に必要なものは、?自分と真摯に向き合う機会 ?本当に尊敬出来る人との出会い ?気が向いたらふと会いたくなって、深い話もできる友人との出会い この3つだと思う。これが揃ったら、あとは自分で考えて好きに動けばいいと思うんだ」

→ 「かんたんにいえば、「中二病」とか「非モテ」とかの用語が挙げられる。これらは、意味が散々ブレまくりながらも、それらに関してなにか言いたがる人間を多数巻き込んでふくれあがり、そして一旦そこに関与してしまえば、「なんとなくそこいらへんにありそうな問題」を、すべてそれらの用語越しにしか考えられなくしてゆく効力を持っていて(←それらの用語を使わないほうが整理された説明が可能だったかもしれないのに)、一度引っかかるとなかなか抜け出せない」

→ 「野球部の女子マネージャーが、『マネジメント』を読んで野球部改革に取り組むという、洒落から始まった物語に、並外れて真摯に作者自身が取り組むことで、本書には真摯さが塗り込められた。展開が王道どころか陳腐でも、文章はなっていなくても、誰が読んでも作者の“本気”が主人公を通して伝わってくる」