世界は称賛に値する

日記を書きます

土曜日の始まり

▼▼敬意を伝えるってことは、敬意を考えることや、敬意を語ることから、始まるわけではない、のだよなあ、っていうのは、まあ、理解しているつもりである。認識して前提にしているつもりではある。敬意について考えてみせていても、敬意について語ってみせていても、敬意なんて伝わらない。敬意を持っているように見えてくれるわけではない。敬意を意味してくれない。敬意を伝える、ってことを意味しうる行為、っていうのは、なんていうか、そういうのではない、って思っているところはある、のだ。▼▼▼でも考えるし、でも語る。楽しいからでもあって、怖いからでもある。可能な限り、粗悪で貧弱で不埒な、しょぼくて安っぽい敬意は、持ちたくないなあ、と、怖がっているのだ。考えておけば、語っておけば、事前につぶさに観察しておけば、よい敬意、が浮かんでくれるのではないかなー、なんて、期待しているのである。経験則的なものではあるだろう。
▼▼起床時刻は午前9時。勤務開始は午後2時。新年度初週末なわけで忙しくなるだろうか。忙しくなる要素はあって、準備もしていたのだけど、ほんのり消えてしまった。準備は無駄になった? 活かせるだろうか? という思考開始で活かせるとよいなとは思う。

備忘録ととおすすめを謳いがちながら、本体は、楽しく読みました! の表明です。

→ 「物語を持たないというのがどういうことか、僕にはやっぱりうまく想像することができない。一生懸命試みたんだけどだめだった。物語の先端にあるものこそが意識だと思ってしまう。けれどたしかにそれを持たない生き物も、人間だって想定することができる。それをちゃんと想像できないことがくやしい」

→ 「言い換えに魅力を感じるメンタリティと、「まじぱねぇ」をその地方特有の専門用語に言い換える前の共通の発生の理由と、なぜ言い換えて自分の身内だけしか理解させる気のない共通認識にすることに快楽を感じるのか。の方が重要だとおもうわけだ」

→ 「おそらく、『母なる証明』で最も重要な人物は母でも息子でもなく、殺された女の子と最後に真犯人として捕まる男の子で、この映画で「真実-現実」はそこにしかなくて、それ以外はすべて交換可能なものと見せかけのもの(だが、こちらが通常の意味での「現実」)によって出来ているのだと思う。だからこの映画はホラー映画 (幽霊の映画)として観られるべきものなのだろう」

→ 「この本を読んで面白かったのはプラトンの魂の三分説の話で、魂は理性と欲望だけでなく気概という部分も持つという話である。気概とは、自尊心、誇りなどなどといったものに通じる何かなのだが、その気概を実現させることにおいて無力だったことが共産主義体制を崩壊させることになった、人間にとってもっとも大事である気概を保証できるのは自由主義の体制だけなのであるというような話であったと記憶している」

→ 「「黙ることが許される」というのは思考する人間において手放すことのできない特権である」

→ 「3.ふみとどまる運動神経は、運動神経ではない。この踏みとどまり方を運動神経でたとえるということは、流れにそってつい事実に反したことを書いてしまうことを運動(慣性の法則)になぞらえたということだと思われるが、日記にも流れに逆らいがたいものとしての慣性はあるのか」