世界は称賛に値する

日記を書きます

誰かの傲慢を推奨することの背後にありそうな保身と、でもそれだけではないので、言葉を引っ込めるのは駄目かなのこと

▼▼試行錯誤していて改めて思った。昨日の「傲慢がなんか好きなんですけど……話」の続編と改訂として考えてしまっていた。▼▼いわゆる「傲慢」を許容して推奨すらしてみせたくなるのは、自分には価値がある、と思っていて欲しい相手が時折いたりするせいであって──素晴らしくて素敵なのにー! 謙遜のしすぎは「素晴らしさ」を消してしまうかもなので駄目です! って思わず言いたくなってしまうような言葉や行動を見かけることがあるせいであり、まあつまり、いやいや傲慢程度全然オッケーオッケーですよー、と明言できるだけの背景を維持したがってるだけなのかなあ? って思ってみた。
▼▼けどまあ、頑張らないよ僕はすごいから、っていう傲慢もありえそうなので──全然好きじゃないので、好きじゃない傲慢もあるよなー、って考えてみてもいる。
▼▼あ、違うかな、と訂正してみる。
▼▼傲慢ありきだからこそ──傲慢であろうとこの道を行きます、と判断して覚悟してみせたからこそ、頑張るし、むしろ頑張らなければなるまいよ、なんていう決意だって想像はできたりするので、実は素晴らしい僕なので頑張らないよ問題の根源あたりにあるものと、傲慢は、関係ないのではないかなー、って、訂正を交えつつ考え直してみている。謙虚や謙遜を始めとする評価の低さだって頑張りを否定する理由になったりするしなあ。
▼▼で、言葉が止まった。
▼▼なんていうか、利己や保身の匂いがするなーと思えてきた。
▼▼称賛の言葉を伝えたい──褒め称えよう、と心底真剣に思って、覚悟を決めて敬意や好意を伝えた時に、軽々しく否定されたら怖いなあ、って、単純に、思っているだけなのではないか? って思えてきたのだった。利己的で保身的な、誰かを大切にしているようでいて実際は自分を大切にしてしまっているような、雰囲気が、軽く浮かび上がってきていて、駄目な認識かなあ、なんて思ってしまった、のであった。▼▼けど、まあ、だから駄目である、とは言えない、か。言っちゃ駄目であろう、とむしろ最近は思う。
▼▼誰かに言葉を伝える、ってことの背後に、利己性や保身性を見て──問題視して重視しているものの中に「己」が含まれていることを理由にして、言葉を引っ込めてしまうような判断が、雑すぎなのは、最近少しずつ理解でき始めてきている、からだ。視線が、相手を向いていて、自分を向いていて、という混合比の問題は、ありうるにせよ、比率の問題であって、視線が自分を向いてたら駄目、ってことは言えないのだろう、と思うようになってきているからだ。▼▼利己とか保身つまり自分を棄ててみせることで「優しさ」を演出してみせるような「優しさ」は、むしろ駄目なのではないかなー、なんて、結構強く思い始めている、のだ。▼▼難しくて明確な正答などはなく、無論場合にもよる問題なので、まあそれこそ、粗雑な断言を避けたい議論ではある、ではあり、回答が、けど懸命に頑張って伝えるしかないよね側に寄っていくのも、まあ、常なのだよなー、とは思った。