世界は称賛に値する

日記を書きます

水曜日の始まり

▼▼傲慢は嫌いじゃないってよく思う。▼▼傲慢って概念は心を難解にしてるよなー。制御しているというよりは征服してる。誰かの言葉を塞いでいることも沢山ある。けど、時折は優しさや心遣いの具現化を援助してくれることもあって、つまり、慈愛とか覚悟を解釈させてくれる──見せてくれることもあって、好きだと思ったりもする。連想的に言うなら、傲慢をどう処理してるか、聞くのも、見るのも、好きだなって思っている。▼▼違和感ある。巧く言えてないなー。前述したような理由だけではなく傲慢は好きなのだ、とか思ってしまうところがある。無自覚でない傲慢なら全部好き、くらいは言えそうだ。

昨日読みましたものです。感銘と記憶の自分向けニュースサイト風。的な備忘録。

→ 「はっきりいって、おれの青春にはいい思い出しかないのだが、その思い出の中の人物たちにとって、その頃がいいものであったかどうか本当には知りようがない、のは基本的におれがコミュニティを次々移り住む生活をしてきたからなんだが、そろそろその答え合わせをある程度受け止める必要があるか」

→ 「えっと、ようは、才能・ポテンシャルの開放は、倫理に寄って枠がはめられるものではない、純粋なエネルギーで、それは解放・放出すること「こそ」が義務って思っているんだ」

→ 「相変わらず文章はたくさん書いていて、毎日書いていて、たくさん溜まっていく。それは何だか分からないけれど自分にとってとても大切なもので、楽器とか使えるくらい器用だったらいいのだけれど、そんなもの使えないし、てかこのノートPCのキーボードが楽器だし、この文章本当は音楽なんじゃねーの?、とか思って、一旦落ち着いた。音楽も詩も絵も研究も全部似たようなものなのだろう」

→ 「いやだ〜こういう「多数派の感情をコントロールしないと大変な事になるよ」というロジック。暴走/悪化しかねない多数派感情を批判するのではなくて、それを温存したまま、しかもそれを口実にして少数者の主張を黙殺するのって、脅迫と開きなおりのコンビ技みたいで気持ち悪い」

→ 「僕はそれに気づいた時、すごくいやだった。世界の人が僕の幸せを願っているわけでもなく、僕に好意を持っているわけじゃない。それに気づいたとき相当ショックだったもんだ。でもおかしな話しだ。自分は会う人すべての幸せなんて願っていないし、多くには好意を持っているわけじゃない。そして、ちょっとでも悪いところある人には悪口を言っているんだ。それと同じことをされているのは当たり前だよな。 とりあえず、悪口は言わないことにしてみた。そうすると、自分が言っているのと同じ分だけ悪口を言われている、という気持ちはなくなった」