世界は称賛に値する

日記を書きます

土曜日の始まり

▼▼指針の話をし始めると「理想論」が視界に入ってきてはしまうよな、って思った。脳裡に自動で浮かんでしまう「理想の姿」が「指針」を考える過程では、いつだって──どうしたって、絡んできてしまうぜ、なんて認識できる。認識してしまっている。理想形を思い浮かべないで指針の話をするのは無理なのではないかな、って論旨にしてもよい。理想形を思い浮かべたくない、ってことではなくて、なので理想形を固めてないと指針を決めようとしても駄目かな、ってことを考えている、のだと思う。▼▼若干怪しい。
▼▼指針の話は理想の話である、っていう整理はまあ何にせよアリかな。違和感はあまりない。▼▼で、続けて、理想の話は難しさの話である──話であるだろうか? っていうのを考えていたりしていて、違和感を覚えるところがあったので、整理してみようと試みているのであった。理想は難しさを含まないと「理想」ではない? と言える? ▼▼違和感は覚える。のだけど、理想論が「難しさ」を含みやすいのも確かだよなーとも思えるので、実際はどのような構造になってるのだろう? って考えている。▼▼指針の話は理想の話であり──でもって──理想の話は「挑戦」の話である、なんて整理も、合わせてはできそうで、理想の話は挑戦の話、から、挑戦の話は「難しさ」の話である、っていうのも、わりと繋げそうな気がしてしまう、のだよなー。▼▼理想と難しさという概念を直接結びつけようとすると違和感覚えてしまうけど、挑戦って概念を挟んでみせて間接的に繋ごうとしてみると、違和感なくなってしまう。挑戦という概念が、理想概念あるいは難しさ概念を、変化させうる? のかな? ▼▼てなわけで、理想の話は難しさの話? と言ってよい? って問いを考え続けている。のであった。▼▼指針において「より難しい姿」を考えることがより「理想的な姿」を考えることになるのかなー? なんて問いとかが浮かんだりして、でも違うよなあ、ってやきもきしている。とか言える。▼▼安易な難しさってあると思う。ので、難しさの種類の問題なのかなー、って軽く思った。理想の姿を追求する道のりとして配置可能な種類の難しさがあって、理想の姿とは同じところに置けない難しさもあって。とか。▼▼言葉遊びにはなってきてると思う。迷走しているし混乱しているなー。再構築目指して振り返っておくと、もともとは「指針」についての話がしたくて、指針を考えるには何を考えましょう、ってことを考えていたのだった。

備忘録を中心にして、誰かにおすすめもできると嬉しい的自分ニュース風の記録です。

→ 「という具合に、ここ数日、いろいろ考えるなかで、わかる/わからないという評価に対する考え方が自分でもだいぶ変わってきた。特にわかってきたのは、世の中で言われる「わからない」がほとんどの場合、知らないということに近いということだ。 知らない人にもどうしても知ってもらいたいという強い欲求がないのであれば「わからない」という声に過敏なる必要はないだろう」

→ 「要は、『仕事』とは相手があってのことで『作業』のなかで他者を配慮することです。『作業』だけやっていても淡々とこなしていっても仕事にはなりません。「淡々と作業をする」状態にいかに逃げ込まないか、逃げ込んだ相手を引っ張り出すかが『仕事』の上手さです」

→ 「友だちへのやさしさと、見知らぬおじさんへのやさしさを全く同じレベルでできる人も珍しいし」

→ 「私はサンプルよりも文書を重視する。サンプル通りにすれば動くという保障は誰もしていないし、別のプログラムである以上厳密にサンプル通りにすることはそもそも不可能だ。だから、サンプルはあくまで参考にするだけに留め、文書に「やっていい」と書いていないことはやってみて動いたとしてもやらない。が、文書に書いてあることだけだと全く何もできない事がある。そういう場合にはいろいろ試して規則を推測し、それについて確認を取るという手順を踏まないといけない。超めんどうくさい。しかし、こういう経験を積むことで、自分がこういうものを作る時に何に気をつけるべきかがよくわかるので、それも悪くないかもしれないとは思う。文書の充実度は使い勝手を大きく左右する。また、サンプルを用意する際には1行でも無駄なものを削るべきだ」

→ 「よく、「犬は動物抽象基底から派生して...」みたいな説明でクラスの派生の説明をするのが抽象的で無味乾燥だと言われるが、そう感じる人がたくさんいるということに問題の本質があるのだと私は思う。説明する側は別に抽象的で無味乾燥な説明をしているつもりはないはずだが、現実にそれが抽象的で無味乾燥であるとみなされている以上、説明する側とされる側に何か違いがあることになる。たぶん、多くの人の頭の中ではプログラミングがリアルではないのだ」

→ 「(23日の日記に書いたような、「高画質」に絵画が対抗し得るためのヒントが、ここにもあるように思う。たった一本の線が、ものすごく多くの事柄を含むことも可能なはずなのだ。それはミニマリズムとは根本的に違う何かだ。)」