世界は称賛に値する

日記を書きます

抽象化って言えるだけで全面同じ対処でよいのか、駄目そうか

▼▼言語化によってなされる抽象についてぼんやりと考えていて、言葉にすることで対象が抽象化されるから、抽象化によってこういうことが起こりうるよ、って説明をしてみようと思ったのだけど──だから利点も欠点も踏まえて考えていたのだけど、考えていたら違和感を感じ始めて、例えば、柱時計って言葉と、運命って言葉と、動きって言葉と、関数って言葉と、アウフヘーベンという言葉と、428って言葉と、を、同じ「抽象化の結果」として語るのは、結構難しくない? まるめてまとめて一緒くたにしちゃ駄目じゃない? って思えて──理解や把握の難易度も、対象の概念一つがあることの有益性や有害性や、可能性の拡大率も、全然違うんだけど、まとめて語ってしまってよいの? なんて思えて、逆に──問題意識が逆転して、言葉はすべて同じような抽象化であり……、なんていって、画一的に捉えてしまうことの危うさ、みたいなものを、ふと考えてしまったのであった。厳密な抽象化による言葉もあれば、ゆるゆるな抽象化による言葉もあって、既定済みの言語の勝手な厳格化や曖昧化すら可能だったりもするので、対処は柔軟かつ個別かつ慎重にせねば、と、現時点では考えるようになっている。推進していこうと思う。