先を読む頭脳(羽生善治・伊藤毅志・松原仁)を読んでいる

先を読む頭脳 (新潮文庫)

先を読む頭脳 (新潮文庫)

▼▼最近は『先を読む頭脳』を読んでいる。将棋名人の脳内を読み取ろうとした記録、とか言えるだろう。認知科学的な将棋名人分析だ。将棋ってよいなー、と思えた。基本的には囲碁を好んでいるところもあって、なので、囲碁と違う要素で、楽しそうだなー、って思えるところを考えていた。観察していた。現時点までで二つ見つけてみた。
▼▼愉快要素の一つ目は、時間配分意識の違い、で、微妙に粗雑な話になるけど、将棋は駒の再利用が可能なこともあって、動かせる駒が減りにくくて、状況を固めにくくて、なので、収束に「向かわない」状況が多少は構築しやすい──しやすいから、戦略面において「終盤で読む時間が足りなくなる」って意識ではなくて、終盤戦までの距離が遠くてだから時間が要る、って可能性を踏まえておかないと駄目なこと。終盤の混乱はあるにせよ混乱の種類の違い、って言えるかな。距離感の違いみたいなものを感じた。
▼▼愉快要素の二つ目は、完璧に対する意識の違い、なんて言えて──なんていうか、将棋だと「動かさないこと」が最善策だと想像できる完璧な布陣ができあがった中で「けど動かさないと駄目」って状況が意外と数多くありえてしまうこと、で、なんていう判断が意外と要されるようであった。違いとしては「何処なら崩してよいか?っていう判断が出てきてしまう」とか言えるだろう。囲碁の捨て石あたりとは似ているようで違う意識ではないかと思う。似ていると言えるかも怪しいかなー。いずれにせよ独特だと感じた。
▼▼囲碁なら、収束に向かわない戦いは実現が意外と難しくて──盤上的な長引かせが難しいので、収束を基本として見なせる、し、置かないことが最善である場面や状況や布陣なんていうのもほぼありえないので、比較対象が「次手案」同士になり、次の手をおおむね「プラス」として見なしうる。駒の潰し合いというよりは場の奪い合いだからだ。という差異があるようだな、と考えていた。楽しいな、と改めて感じていた。
▼▼終わりが踏まえやすい戦い、と、終わりの見通しにくい戦い、があって――完璧を壊しながらの戦い、と、完璧なんてない戦い、がある。当然ながら脳裡の試行錯誤は別のものになってしまう。なってしまうってことが心底楽しいよなー、って考えていた。
▼▼複数の思考型がある。ありうる。なので、選ぶことが可能です、という事実をかなり好んでいるようだ。困ったら切り替えや組み替えが可能である、ってことが嬉しいのかもしれない。可能性が拓けていることに歓びを感じているようなところはある。