あとでやろう、を許容するか許さないか

▼▼あとでやろう的な判断を「駄目駄目なものである捨ててしまえ」って見なして完全排除を目指す行動論がまずありえるなーって思った。▼▼あとでやろう的な判断をまず許容した上で「あとでちゃんとやれる」行動論を考える余地とかもあるかなーって思った。
▼▼試行錯誤の結果、あとでやろう、と判断した瞬間の「あとで」に対する期待はおおまかに二種類あるな、と理解できた。▼▼あとでの自分ならばきつくても動けるだろう、という期待と、あとでの自分ならばきついと感じずに動けるだろう、という期待だ。
▼▼精神的な資源の回復に期待するか、精神的な性質の変化に期待するか、って言えるかな。▼▼言葉遊びにも思えるけど、具体的に考えてみると、確かにきついけど全然平気だぜおっしゃー、と思えるような時もあれば、全然きつくないよこんなの俺がやるよ、って思える時もある。けど、問題により深く潜っていくと、前者の「全然平気」って言える時の「きつさ」は最初の時の「きつさ」とは種類が違うかもなあ、とは思えた。
▼▼あとでやろうを許容して、でも「あとでちゃんとやれるようにする」っていう策謀には、打ち手が沢山あって、切り崩しが難しいなあ、って、改めて思った。回復および変質のどちらを狙うか問題があり、実際巧く変えられるかって問題もあり、ついでに、思い出せないと意味無し的なリマインダ視点でも問題視が可能で、あとは、期待できることの確率の低さをどうするか、っていう問題も浮上させられる。将来の自分は曖昧すぎる。
▼▼物理法則は明日も同じように通じるのか、って問題にすら「わからない」とか言えてしまうのに、行動論程度で明日に手が届くのかな、って最終的には考えたりしていた。