普段通りの観念を壊す違和、おかげで見えるひとの様

▼▼誰にだって「まるで自分のように」人生がある――背景のようにしか見ていなかった人間にだっておのおのの日々がある、ってことを、脳や身に沁みるようにして想像するのは、ひどく難しい。運良く片鱗に触れられる機会もあって、だからこそ、普段から、ってことの難しさを知る。言うなれば、身につまされる。あっさりできる人っているんだろうか。いるならよいなと思う。可能性の地平がそこに拡がっているとよいと思う。
▼▼目的意識って普段はあんまり明確には置いていないみたいで、なんていうか、前提でありすぎたりして――自明でありすぎたりして、照明をあてていないことが多いな、って思う。おおむね「無意識」って言えるような端的な行動だけがあったりする。だから、というか、おかげで、というか、とにかく、普段は、通勤中にだって「通勤しないと」って意識はない。ほぼない、とか思える程、改めて認識し直した経験は少ないと思う。
▼▼けど、数少ない、だ。時折はある。時折はあった。目的意識を改めてはっきり持ってしまっている瞬間が時々あった。違和感があることがある、のだ。
▼▼実際、違和感を覚えていた。違和を感じる瞬間があった。観念や意識を破損させる何かがあったのだろう、と想像している。普段通り、って思えなくなっていた。破損の修復のため意識が再構築されていて――無意識でいられなくなっていたんじゃないか、とも想像している。想像というよりは妄想混じりの仮説かな。
▼▼数多く並ぶ人混みを眺めて――ゆらゆらと揺れる無数の黒い頭蓋骨を見つめて、ひとりひとりの人生を想像するのはほんとうに難しいものだなあ、なんて改めて実感することができていたのは、でも、再構築中で再起動中だったおかげなんじゃないかな、と思ったのだった。再構築されて再起動された意識や観念は見慣れて見えなくなっていたものを可視化してくれる、のでは? なんて想像してみて、嬉しく思えたのだった。
▼▼視野拡大が可能になるような策謀なら何だって欲しいのさ、なんて最近はかなり強く思えている。形振り構っている場合ではない、というような経験則が培養中なせいだ。