地味な蛍光ペンの満足

▼派手じゃない色の蛍光ペンというものがあって、以前惹かれたことがあった。で、購入してみた。派手じゃなさをどうして求めたんだろう、と少し考える。派手な状況あるいは概念に不都合でもあるんだろうか。あるいは、派手じゃない色を頻繁に認識できるよう画策することで意識が素敵な姿に近付いてくれたりするんじゃないか、とでも判断しているのだろうか。地味な蛍光ペンを活用することで満足するような心理はどういうものでありうるんだろう。世界観や人生観つまり美意識のどのあたりが「地味な色」を満足に接続しうるのだろうか。とか。疑問文ばっかり挙げてみた。▼趣味嗜好がわかりやすいことなんて実際はあまりない。が、趣味嗜好を整理したくなることは多いし、誰かの整理を聞いて楽しくなってしまうことだってある。趣味嗜好は単純化しすぎちゃ駄目、と理解していながら、単純化を聞いて楽しんでしまうことがある、のだ。誰の趣味嗜好であれ、ちゃんと理解しているよ、なんて言うのはおこがましいのだよなー、とは改めて考えていた。誰かしらの「好き語り」を程良く信じないような道くらいが実は素敵なんだろうなー、っていう換言も可能だろう。▼語りうるような「好き」は所詮「胸中に溢れる想い」の模造品とかなのであって、深く深く降りうるところがまだまだ潜んでいるわけだから、理解は遙か遠く、わかったような顔をして独りでほくほくしてちゃ駄目なんだろ、ってことだ。誰であろうと「好き」なところ全部は語りえないよなー、って話にしてもよいと思う。地味な蛍光ペンも結局は「なんかよい」のだ。と複雑性を捨てずに語ることが誠実な局面も無論あって、でも、言葉を連ねて理解を祈る姿を称えたくなることもある。好きは難しい。